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野太い人権、そして反緊縮―ブレイディみかこ『THIS IS JAPAN 英国保育士が見た日本』を読む - 関内関外日記

旗幟を鮮明にしないとすぐに囲まれて殴られる、ってあたり、すでにネッツは「戦時」なのかもしれん。恐ろしい恐ろしい。

2018/03/22 07:21

 

ブログも取り上げられてる本も、どっちも 面白いよ。

面白いっていうとちょっと語弊があるかな?

割と爽快感はある。

ブログで言及されてる本は読むと「すげえな」って思う。

こういうアグレッシブアンダークラスを日本でやれるといいな、みたいな羨望よりむしろ「無理だこれ(笑)」っていうスカッと抜けた感じの諦めが湧いてくる。

 

んで。

 

ブログでも取り上げられてる、上意下達のアレもそうだけど、狭い観測範囲と乏しい経験から感じる

「みんな権威主義大好きだよな、権威にめちゃくちゃ弱いよな」

(※もろちん吾も含む)

っていうのが根深すぎるんではないかな、って思ったり。

即座に旗幟を鮮明にするように求められるのってきっと

「目の前に転がってる現実は、それくらいはっきり分かれてるぞ」

「どっち側のボスを選ぶだけなんだから、簡単やろ?」

っていう前提が広く広く浸透してるからだと思っている。

えらい単純化してるな、って思うけどもそういう構えからじゃないと

「んじゃオマエはどっちなん?」

っていう、分断を助長しかねない割とセンシチブな質問がポロッとスナック感覚で出されることはないだろうなって思うの。

 

良い悪いはこの際措く。

思えば吾はいつもこうだな。

ただ単純化には単純化のメリットがあると思うので、悪いと断じる気にもなれないのよな(気持ちとしてはせっかち過ぎるんで好みじゃないよ、とは思うけども)。

 

ただ二分されたポジションのどちらかを選ぶ際に「ボスへの全面委任」みたいな形の意思表明しか許されてないっぽい雰囲気は危険かな、と思う。

積み上げて「よって俺はこっちの赤い扉を選ぶよ」みたいなんじゃなくて

上から下に流れてる感じ。

「ボスがこう言ってるんだからまあそうなんだろう」ってあんま深く考えずに(吾からそう見えるってだけです、為念)、そっちポジションを安易に選んじゃう。

それを繰り返してるうちに

「あるポジション(のボス)を選んだらそこから波及する全てに上意下達を貫徹する」

って振舞いが血肉に染み込んでしまうんじゃないかなーって。

 

吾の経験からいうと

ボス猿のやってること全てにOKしたわけじゃないんだけど、ボス猿の組んだグループに属してしまうと、たいていの無関心イシューに関しては「どうぞよしなに」ってほぼ丸投げにして楽をして、そんでもってボス猿のやろうとしてることと、自分の好みがずれてきた時に

「あれコイツおかしくねえ?」

って言い出しにくい雰囲気になる。

たぶん別イシューでは他のグループ構成員もボス猿に何らかの違和感を持ってるだろうけど、吾と同じように言い出しにくいんじゃないかな。

これが空気って奴か、って思うけどなんでそうなるのかはサッパリ分からん。

おそらく「無関心イシューに関しては判断丸投げ」っていう怠惰の毒が巡り巡って自分のイシューについても今までの振舞いから

「ボスに任せとけば大丈夫やで」

って自分の内心の違和感を体が押さえ込むからじゃないかと思うが、これはあくまで吾にのみ通用することなので拡大はしない。

風通しがよければ…とか組織論的な問題じゃなくてもっとこう、根っこの部分で何か「ものが言えない」圧がかかってる感じがする。

風通しよければ吾が無関心イシューでも自主的に判断するため勉強するか、ってなるとすげえ疑問だし。

中の人になってしまうと、吾のやわなメンタルではこのボス(権威)への隷属がホントにガッツリ骨身に染み込んでヤバいから、対処法がない以上逃げるしかねえ! ってのが現段階の暫定的結論。

ボスを選ぶって最初は主体的な選択だと思ってても最後は取り込まれてる、ってことがめっちゃ多いんなら、その選択から逃げるしかないじゃんっていうね。

 

そういう「逃げ」を許さなくなる二分論で「オマエはどっちだ」を迫る風潮がきつくなるのは吾みたいな蝙蝠には厳しいよなって思ってたら。

 

tyoshiki.hatenadiary.com

 

悲しいことに日本は敗戦によって外側に敵を持つことを禁じられてしまったから、国内で共食いをするしかないというわけだ。

goldheadさんの記事が素晴らしかったが素晴らしすぎてとても憂鬱な気分になった(笑) - この夜が明けるまであと百万の祈り

 

むむむ。

いかなる課題であれ、相互に国内の共食いをして優勢なポジを得る、という形の闘争しか出来ないのであれば、

「吾はそこからは浮遊していたいのです」

「入力足りないし、結論はもうちょっと待ってね」

のようなどっちつかずの群れは未開拓の沃野なのですね。もしくは教化すべき蛮族。

 

外敵設定が不可能ってことは九分九厘、国民統合という課題はポイ捨てしたようなもんだし、今後はどっちつかずを手に入れるための闘争がますます激しくなりそうな悪寒。

 

今はまだ左右上下全方位的に

「味方を得ようとしてる割にリクルートのやり方が雑」だったり

「そもそもオマエの言い方が気に食わない」だったり

味方を増やすはずが敵を増やしてる感がめちゃんこ一杯だけども。

いずれ学習してより洗練された格好で

「今はまだ結論を出すのは難しいですよ」慎重派を切り崩していくのかもしれない。

 

そうしてスッキリ二分化の確立した日本が立ち現れるのは案外近いのかなぁ、ってボンヤリ思いました。

 

・・・ここまで書いてて思ったけども。

ブレイディみかこの描く「アグレッシブアンダークラス」が日本だと無理だなって思ったのは、日本でやられちゃうと一つの課題が一つの課題として完結しないだろうな、ってのが目に見えてるって思ったからかもしれない。

労組のマッチョおじさんみたく課題解決したらパブで一杯おごってもらってハイさよなら(実際、旦那の不当な扱いの撤回というミッションは決着してる)、みたいなスマートさではなくて、そこからオルグしていきそうな雰囲気をどうしても感じてしまう。

 

上下左右問わず。

いったん課題の解決のためになんらかの活動に参加したら最後、隣接してる(と思われてる)他の課題についても参加(共感)するようにもとめられる観がある。

 

それはNG/OK

と判断したことただそれだけではなくて、そこから

じゃあきっとこれもNG/OKだよな!

って感じに「こう考えるのが自明です」みたいに押し付けられちゃう感じがとにかく日本の場合・・・でかくなりすぎたのでもとい、吾の暮らしてる範囲に限定するかぎり、すごく鬱陶しくてしんどい。

日本だと無理、ってのは主語デカくそ主張だったので撤回するけど、一つの課題に参加した人間がそのまま他の課題にも自動的に参加して然るべき、というポジションで動員の拡大を指向してる勢力はきっと伸びませんよ、と吾の経験則から言わしてもらう。

 

こうして書いてみると、吾がなるべく判断を留保するとか慎重になるのは

「判断してないことにまで判断したかのように見做される」

ってのを忌避してる面もあるのかな、ってちょっと気付いた。

 

いずれ捨てるかもしれんけど、こういう気付きがあるから書いて整理してみるのは悪くない、といういつもの吾得ブログでした。

知恵熱。

ちょびっと沢山テキスト打った(およそ5000字)くらいでヒートアップ。

以前よりだいぶアタマの動きが鈍くなっている気がする。

睡運瞑菜心がけている(まあ8割がた失敗してはいるが)のに。

困ったもんである。

 

思ったことをそのまま書けばいいと思うし、実際そうしているんだけども、どうも文章の運びが気に食わない。

いや、整合性はもとよりないし起承転結もあやふやな文章ではあるのだけども、それでもなんか引っかかるので、書きかけて消すというのをやってる。

書き飛ばしたように見えて意外とそういう風にしてボツになっている文章あるんですよこのブログ。ビックリしたでしょ? 実は本人が一番びっくりしてる。思ったより下書きにぶち込んであるのが増えてたのには驚いたもんだ。

推敲してこのクオリティをもう1年近く続けてるんだから進歩ないよね。

吾ながら呆れるがまあ、美しい日本語の時世が永遠に続くわけでもあるまい。のんびり乱れた日本語の時世が来るのを待つことにする。

 

そうした吾の文章の稚拙さを嘆くのはまたの機会にするとして、今回気になったのは皆どれくらいの時間をかけてブログ書いてらっしゃるのかしらん?

というところである。

さいきんになってまた更新停止になる同期のサクラがぽつぽつと増えてきて、生き残ってるのがめっきり少なくなっているのは、

「年度末の忙しいのに書くのに時間割いていられねえ」

ってな人もけっこう多いのではないのか、と不意に疑問に感じたわけです。

 

飽きたから止める、みたいなのではなくて、書きたいことはあるけど時間かかるし・・・また明日にする、みたいな感じで更新間隔が広がっていくうち、再起動するのがめんどくさくなって自然消滅、というパターン。

吾とほぼ同時期っていうことはもう1年くらい続いてるわけだから「飽きた」というにはちょっと継続が長すぎるように思うのです。

※中身の濃いブログだと1年続けてるとアウトプットが無くなるのかもしれないがそれは今回の考察の対象外とします。

 

始めた時期がまちまちでも、ブログが止まる時期はだいたい決まっている、みたいな傾向あるんじゃないですかね?

1ヶ月とか3ヶ月とか、開始時期からどれくらい生き残るか、について考察してるブログはけっこう見るけど、どのシーズンに止めたか、とか「年度末になると、更新の途絶えるブログが増える・・・」という具合に季節ごとのブログ停止推移を追った考察ってまだ見かけない気がする。

 

リアルに生きている以上、リアル社会の繁忙期とかに左右されてブログの更新が出来なくなる→更新終了、ってパターンもかなりたくさんある気がするんだけど・・・印象論だね。何が言いたいのか良く分からなくなったけど、あれです。

せっかく今まで続けてる(ほぼ同時期にはじめた)ブロガーの皆さんは、年度末なんとか乗り越えてこれからも更新続けてくださいね、というエールのようなそんな感じ。

たぶん(ほぼ確実に)見てないと思うけど、この重い君に届け

昔の話をする。

保育所もなくなった。

小学校はかろうじて残ってる。

中学校はもうない。

高校ももうない。

大学は・・・しばらく大丈夫かな、ひょっとするとやばい。

 

あまり昔のことは気にしないのだが

不意に思い出したとき、夢とかを見たときに

「あれ、どうだったっけ?」

って記憶の混濁が激しいので、「現地で確かめる」という手が使えないのが地味に辛い。覚えていないようで覚えていた風景とか、一体どこで見ていた風景なのか思い出せなかったりする。

思い出すときに「それを見たときの年齢」をキチンと把握して思い出せる人はえらいと思う。自分の場合「見たのは覚えてるよ」ってのはあっても、一体いつだったかまったく見当がつかないこともある。

自分ではだいぶ前に見た風景だと思い込んでいたのが去年見た光景だったり、つい先日見た光景だと思っていても「もう10年も前から更地」みたいになることがザラである。

これで失敗してきたことも数多い。

中学時代の光景だと思って、覚えがないかと中学の頃の友人に尋ねる→高校の通学路から見える風景でした。

or

高校の頃の光景だと思って(ry → 中学の遠足の風景だったよ。

と言ったぐあい。

中学と高校、一緒に進学した友人が一人もいないので、吾以外誰も

「それ記憶混じってるよ」

ということを指摘してくれる人がいない。

周りがいかにも腑に落ちないツラをしているので「俺の捏造記憶だったのかなぁ」とあんまり納得のいかないまま引っ込めると後日、高校←→中学の時系列があべこべになってた、と言うのに自分で気付くというパターンが非常に多い。

 

だからどうしても気になるようなら自分で確かめるより他ないのだけれども、肝心の校舎が潰れてたり、転用されてたりで現地で確かめるというのがとても難しい。

どれも「いつ見たのか覚えてない」というのはたいしたことじゃないからだと思う。「いつ頃見た光景か」ってのを覚えてるのは、体験込みで思い出せるので、ただボンヤリと眺めていた光景が一まとめになって頭の中の雑なフォルダに詰め込まれてるんだろう。

 

帰省して時々、中学・高校の跡地と周辺をうろちょろしてみる。

旧友と会うこともあるけど、まあだいたい居なくなってるからちょっと寂しい。

そうやって彷徨しながら特定できた記憶の光景もいくつかあるけども、最近は打率がだいぶ下がってきた。

というか、いま特定できてない「アタマの中の光景」って特徴がなさすぎる。

「山」「海」「森」その程度で説明してしまえるくらいに単色。

濃淡はあるけれども、それが著しい特徴になっているかって言うとノー。

なんとかして特徴らしい特徴を見つけようとしたこともあるけど、その過程で記憶を捏造するアタマのイタズラ気質を痛感してからは、ボンヤリした捉えどころのない光景の記憶をそのまま放置している。

思い出そう思い出そうと力むと、勝手にドラマチック風景、絵になる風景に改変するんだよな、脳みそ。

おかげで実際に、過去に見たとおりの光景にぶつかっても

「イヤここには崩れかけた小屋があったはず」

などと不必要なアクセントを脳内で捏造してるおかげでしばらくスルー、ということもあった(これは後から当時の写真が偶然見つかって捏造記憶と判明)。

 

 

とらえどころのない記憶の光景に、この先どれくらい再会できるんだろう。

期待はだいぶ薄いので、脳内に残った記憶を、脳が勝手に脚色してしまう今の取り出し方法じゃなくて、記憶そのまま写真に出来る技術はやく実用化しないかな、と願っている。