afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

検索窓を開いたあの時のように。

ブログ編集画面を開いたとたん頭が真っ白になる現象に名をつけたい。

 

検索しようと思ってgoogleとかに接続した途端何かを忘れるのって病気なんじゃないだろうか。思い出そうとしてもぜんぜん思いだせないの。ふつうの人でも一度や二度は経験はあるんじゃないだろうか。

 

俺の場合、それはそれは頻繁なのでもうある程度は慣れた。

忘れるくらいだからどうってことのない調べものだったんだろう、ってこともよくある。ほんとは忘れてはいけない調べものだったりすることも。

けど今週は酷い。慣れたにしても度が過ぎてる。自分で自分に狼狽えるレベル。

立て続けに調べものをしようとして「今俺は何を調べようとしていたのか」ってなった。自分で自分が何をしようとしているのか見失ってる。

見失ったあげく

ポンチャックマシーンは言うほどマシーンじゃねえよな」

とか脈絡のないことを打ち込んで検索してみるなどの暇つぶしをしている。

 

なんて非生産的な。

 

ある程度自分自身を見限ってはいたが、これは底を抜いてる気がする。

いや、こういうことは今までもあったんだ。あったけど残してなかったから、気にしてなかっただけなんだ。

別に残すような動機もないから、それでよかった。

それでは成長もないけど、成長しなければという強い動機に突き動かされてるわけでもないのでそれでよかった。

けどこうやって「毎日ブログを書くぞ」と始めると、どうにかして何かを書かなきゃいけないという焦りに追われて、すごくどうでもいいことを膨らまして書いちゃえ、という気持ちになるわけです。

 

で今実践してるんだけど、あらためて思うんですよ。

 

検索しようとして「あれいま何しようとしてたんだっけ」ってなる虚無の時間。

書きながら振り返ってみると、積み重ねれば山のような時間であることを思い知るのです。

頻度から言うと1日1回はこの虚無に囚われてる気がする。

そしていったんは思いだせないから、と検索窓を閉じるけどアタマの隅に「いったい何をが探そうとしていたのか」ってのが引っかかってるので、次の作業に集中できない。

もともと大したポテンシャルもないのに、これで集中力が削られてさらに下がる。

それが日々繰り返されているわけである。

 

恐ろしいね。

我ながらこれでよくどうにかなってんな、と思う。

本人気づいてないだけでどうにもなってないのかもしれないけど。

 

今日のこのブログも、編集画面開く前にはボンヤリ何か書こうとしてた筈なんですよ、こんな益体もない文章じゃない主観的には生産的な奴を。

けど思いだせないまま10分ほどコロコロしてたらもうなんというか気力が切れたので、このエントリでどうにか隙間を埋めることといたします。

 

ブログやってると自分の弱点しか見えてこないな。どうなってんだ。

お気持ちの射程距離。

インプットが減るのが問題というよりも、インプットする己の体調に問題が大きいと思う昨今。

本を読んでいても文字がただの模様に見える…

 

とりあえず気になったことだけ。

 

HPVワクチン賛成派は反対派に伝え方で負けている 「大砲に刀で戦っているようなもの」

表題のHPVワクチンなら無料接種の道は既に開かれてるので、賛成派も手の届く範囲で必要な方にお勧めするとかしてはどうか。この手の闘争は情念のべったりくっついた空中戦で現当事者が置き去りになるのでうんざり。

2019/02/18 17:40

 

前々から書いてたけど、賛成派という人たちの救いたい対象は誰なのかな、と。

反対派はまあだいたいevilってのはおおよその類推がつくんですよ。

お気持ちに訴えつつ、結果には寄り添わない奴。居すぎて困る奴。

でね。

こういうのはもうしゃあない、社会はそういうもんだと。

いきなりズレるけど

自己責任・努力不足・自業自得、というムーブメントを煽りに煽ったあげく

いざ自分がそれを問われるポジションになると、喧しく鳴きさんざめいてるクラスタっているでしょ? ぜんぜん悪びれずにかつてぶん殴ったことを都合よく忘れてるクラスタ

反省のなさ加減、自己都合「だけ」の振舞い。似非科学はどこかこの、世の中の流行と似た感じを受ける。

だから、防ぎようがないでしょう、と。

この空気の威力に抗うのに、空気をもってする、ってのはすごく不利だと思うの。

 

オッさん、オッさんやからね。

小泉竹中フィーバーの時、ノリにノッてた「空気」が

抵抗勢力とレッテルを張った相手に対してどれほど冷酷に振る舞えるかは覚えてる。

マジで聞く耳持たなかったからね、どれほど理を説こうが。

この「科学」VS「似非科学」ってのも、正面から戦うと、どうもそうなるような気がして。

空気が全てなんで、その時の空気の流れを読み損ねた時のダメッジは測り知れない。

もしこれ「似非科学」側が勝利をおさめたら、ワクチンの定期接種認証の剥奪とか言ってもおかしくないと思うんですよ。本邦の持つ空気に酔う傾向が甚だしいのを考えると。

現状維持よりもさらにヤベーことになる。

 

ウソをまき散らす連中が許せないのは分かる、分かるけども正面から戦って

「もし負けたら」と考えると、俺は声高に正しさを喧伝するのは危ういと思う。

 

似非科学はとにかくお気持ち寄り。

似非科学は不安を取り除いてくれるかもしれないけど、結果には寄り添わない。

科学が折々不安を煽るようなことを言うのは、結果に責任が持ちようがないからだ。

信じたのにダメになった、どうしてくれる、となった時にどうやって責任をとれるのか。そんなもん神様だってとれやしないだろう。

似非科学はそこで、いかにも責任が取れるかのように振る舞うけれども、意に染まない結果が出たら切り捨てるそのしぐさはさんざん語られまくっている。

 

それでも、それをダメだ、と非難したところでどうにもならない。

苦しかったあの時、オレサマの不安に寄り添ってくれたのは似非科学なんや!!! って本人世界が固まってるんだから届こうはずもない。

 

科学の人はときどき、これを見落としてると思う。

とくに先鋭的な似非科学批判になると、似非科学の養分になってる不安いっぱいの人の有責性を難じるような装いがあるので、のれないのよね。

「バカどもを引っ掛けてる似非科学」というのもね、なんというか気持ち悪い。事実だとしても。

ホントオマエスゲエよそれこそ上目線もう敵いませんシェンシェイ

ってなる。

人間ちゃんのバイタルって上下動のない常に変動しないかちんこちんのコンクリじゃないぜよ。弱っちくなってるところにするっと入り込まれてそれを論難されるってエグいと思う。

 

この受け止め方そのものが啓蒙する人たちにとってはバカにする根拠なんだろうが、

似非科学に引っかかってるのは「関係ねぇ」人たちだし。

つか「関係ねぇ」人たちを「バカども」と括る論調に、薄い関係というかまず無関係の俺が乗っかるのもなかなか失礼な話だよな、って思うし。

そこで「社会益」を盾に「奴らバカどもが社会の足を引っ張っているのだよ!!」って言い出したら

ホントオマエスゲエよ(ry

ってなるし。

賛成派というか、科学を推進したい人たちの持つ社会圧が「子産め」の社会圧を彷彿とさせてうっすらとモイキー、ってなる。

人を救うという圧倒的正しさを纏ってるので、年金集ろうとするだけの社会圧に比べると大っぴらに反論できないんだけども、かといって不安につけ込む似非科学派を許容する気にもなれない中途半端な気持ち。

 

どっちにものれない。

不安につけ込む輩も、不安へ共感するそぶりも見せようとせず、それでいて人の行動を変えられると思ってる輩にも。

 

科学がホントにどうにかしたいのなら、地上戦しかないんじゃないかしら。

定期接種は今も活きているし。

不特定多数の誰かではなく、今まさに、漠然とした不安を抱えてどうしようか迷っている目の前の人に、手の届く限りアプローチするほうがまだ効果あると思う。

 

寄り添えないけど正しいのは俺だぜ(エビデンスあるし)、って言うだけなら楽だろうけど、実際に「こまってるひと」を救えなさ加減では似非科学と大差ないな、とも感じました。

 

表題のHPVワクチンに関しては

自分の身近な人にはどういうリスクがあるのかをきちんとわかる範囲で伝えて

「それでも受けたほうがいいと思う、何があっても俺はあなたの味方だぞ」

て言えるくらいでいたいです。

 

ついで。

https://www.mamoreruinochi.com/wordpress/wp-content/uploads/docs/publication/20181101ikeda_junbishomen_final.pdf


ブログ書いてる途中見つけて、ちょっと面白かったのはこれ。
原告は一応村中氏の本名(と思われるもの)を把握してWEDGE編集部に訴状送付したけど受け取り拒否されて、代理人弁護士を指定されてそこに送付すれば受け取ってやるってなった。原告側からすれば、代理人弁護士を変更したらこれ裁判の継続できなくなるじゃん、ってのが課題、と。
法廷でも本名を名乗らない、本人確認に応じない、ってのが奇矯な話のように思われてたけど、原告さんも「~べき」論に終始してるあたり別に絶対名乗らなけ「ればならない」ってわけではないのか、と思ったり。
些末な話だけど、ちょっと気になりました。

 

※追記。

ブコメで「副反応を訴えている人の味方になっては」というのをいただいたのですが

実際に副反応で苦しんでいる知人友人、というのがいないのでちょっと難しいです。

味方になるというか、まさにその人から「こうして欲しい」という具体的な要請があればそれにYES/NO言えますが、そのような近しい関係のない人に安易に味方になると言って、実際に支援を要請された時に「それは想定していなかった要請です」って断るようなことになってはお互いムナクソ悪いと思うので。

近しい人というのは何かあった時に「どうして欲しい」というのが聞ける相手であり「オッさんが奨めたからやってこうなったんや」って非難を堪えることの出来る相手であり、あるいは「オッさんの言うことなんか聞かない」って言われても受容できる相手だからこそ、何とかしたいな、と思うわけで。

距離が離れると「まるごと味方」「まるごと敵」っていうコミュニケーションになりがちなので、集団としてのどちらか、に肩入れするのは、我が身可愛さも含めて遠慮したいな、と考えています。

 

反ワクチンの立場から見れば、俺は接種奨めてるから敵だ、って見えるかもしれないけど、奨めるにしてもなんかあった時に支えられるんじゃないかな、って思えるくらいの身内に限るし、それでもイヤだって言われたらすんなり退くつもり。

この「拒絶する相手に接種するよう説諭する」という姿勢のなさは、きっとワクチンの立場からはヌルいので敵、ってなると思うけどね。

 

おそらくどちらの立場から見ても「敵」もしくは「バカ」に見えているんだろうな。

ま、それはしゃーない。

ふたり。

俺専用メモ。

断絶ってどっから来るんだろうな。

 

外からくる奴。

www.aozora.gr.jp

 

内からくる奴。

ja.wikipedia.org

 

たぶん違うけど。

ふたりだけの介入困難な世界、内から壊れた時にはどうやって立て直せばよいのか。

近ければ近いほど「かくあるべし」という理念を投影してしまいがちの気がするがさて。外から和解を強制される、というのは存外救いが大きいのかもしれない。

内発的に和解に応じるということは、相手を屈服させるというのを採らないのなら、相手の言い分に一定の譲歩をする形になる。

自らの過ちを認めるということだ。

相互にその「過ちを認め合う」ということが、自律した個人間で、強制力なしで可能だろうか?

人間はそこまで正しい動物か?

自立している、自己決定で生きているという自負が、

「誤った決定をしたオマエの(おれの)有責性」

を問い質したくなる衝動に転化するのでは?

そうだったとして、その衝動を抑制するのは、何に拠るべきか。

ミスったときに謝れない、というのが普通だと考えるべきか?

それを認めさせる、不満を持ちながらも折り合いをつけさせるにはやはり強制力を持った外部が必要で、 自立(を擬制)した個人が、自立(を擬制)した個人に屈服するかのような結果は回避出来るのならそれにこしたことはない?

お互いに和解した、というつもりになってても「対立した」という事実は消えない。それをどの程度引きずるかはこれはもう人それぞれだけども、相互に対等という立場での和解なら

「おれの方がオマエよりも多めに譲ってやった」

という感覚はどうしても残るのでは。

本当に五分と五分か、センターマンの世界。

 

 

自分の「謝れない度 」もかなり高いことをちょっと思い知る。

外側から強制されているのなら、「しゃあない」とアタマを下げたふりにかこつけて自己の過ちを認められる面も大きい、と。

一対一で、自分の過ちを認めてしまうことが何か敗けた気がする心持ちになってすごいモヤモヤして間違ってるのを内心で分かってても腰を折ることが出来ずにいる。

 

器が小さいのを思い知るのはしんどいが、いったん退いてしまうとなげやりになるのも経験上、確実に訪れる結末。

この辺もっとうまく処理できんものかな。いつまで経っても性格は治りそうにない。