afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

狗はどこへ行った。その2

 明治の日本人がボコっていたのは、「舞姫」の主人公だけではない。

※ダラダラ読んでる。いずれ何か書くかも。 

 

というわけで先日の続き。

afurikamaimai.hatenablog.com

 

第1章の軍用犬の章は、前回の記事の後にも戦後の進駐軍向け需要とかいろいろあったんだけど割愛。

メンバーは代わったけど、「俺が主導権を獲るぜ」という権力抗争がまた繰り返されただけなので。

わかりやすいなホモサピ。

 

第2章は狂犬病のお話です。

病気自体はどうやら元々あったんだけども、海外交易が自由化されてからググっとその罹患数が増えた

(と言っても、その後の時代のそれに比べたらそこまででもない)

のもあって、お役所は狂犬病対策に乗り出します。

といっても、予防ワクチンがまだない時代ですし、手っ取り早いのは狂犬病に罹ってそうな奴を、捕まえて処分すること。

そのお仕事を管掌することになったのが警察。

警察は請負業者に犬の捕獲・処分を委託するようになります。

その業者の数は時代によって増減するんだけど、やってることはいたって乱暴。

 

徘徊してる犬を発見したら捕まえる → ボッコボコにする。

 

基本線はこの路線が一貫してますが、さすがに時代が下るといろいろ変わります。

昼間は女子供が見てるので、天下の往来で撲殺するのは止めるように、ということで

捕獲人の活動時間帯を日出前・日没後に限定してみたり、

※撲殺そのものは制限していない。

使いこなすのに熟練の技が必要であった捕獲用の投げ縄に代わって、素人でも扱いやすい「ガネ」が開発されてみたり。

※むしろ撲殺する効率は上がっている。

 

手段も乱暴なんですけど、ボコる相手を見定めるのも乱暴。

そもそもこの時代・・・というか戦後もしばらくそうとう後になるまで

「犬は放し飼いするのが当たり前」

というのが常識でした。なので

飼い犬だろうが野良犬だろうがお構いなしに

「噛みつきそうな奴・徘徊してる奴」はガッツリ捕まえてボコります。

飼い主が苦情言ってきても知るか。

そもそもやられたくなければ繋いどけ、というと

「鎖に繋ぐなんて無慈悲すぎる」

という愛犬家のお言葉が飛んでくる。・・・文化が違う。

 

しかし往来で大人の男が数人がかりで野良っぽいの(飼い犬も混じってる)をボコるのに眉をひそめるのは現代人ばかりでなく、当時の欧米の人もそうだったようで、在留している外国人の皆から政府はいろいろとイチャモンつけられます。

そこで、政府としても対策を取らざるを得ず。

狂犬病ワクチンの接種の推進

・畜犬税による飼い主の義務の規定の整備

・獣疫予防法による獣疫検査委員の導入と畜犬の取り締まり強化

などをおいおい実施するんですが、これは「飼い主と飼い犬」を縛っただけで、野良犬の方は手付かず。

で、同時期に狂犬病が流行の兆しを見せたので、捕獲業者は増加します。

往来でボコる数は減りましたが、捕獲頭数はグングン増えて、1927-28年にはピークを迎えます。昭和天皇即位式典に合わせた浄化作戦にともなう広域大規模の一斉捕獲で、めっちゃたくさん獲れました。

いちおう外聞上の都合もあり、捕獲犬の収容施設も設けられましたが、ほぼ「捕まえてきて収容後は放置」というレベルの施設に過ぎず、かなり劣悪な環境で「死ぬのとどっちがマシかな?」という有様でした。狭いし臭いし、共食いするし、後から放り込まれたのに踏みつけられて圧死するし、とかいう状況。

 

捕まえて命は拾ったこっちもこっちで悲惨ですが、一方、ボコられた方の犬も悲惨。

 

捕獲業者の請負金は、すごい安くて、日々の労賃としたら微々たるものです。

それを穴埋めするのが、捕獲した犬の死骸は捕獲人に無料で下げ渡される、という措置。

この犬の死骸が、カネになります。

列挙すれば、

犬皮 三味線など、毛皮は人力車に利用
犬肉 肥料にする場合一匹5.6銭 

   肉にすると 赤犬は1斤15.6銭 それ以外は1斤3銭程度で売れる

 

(下層民向けのお肉屋さんでは

牛肉に馬肉を1/3混ぜたものが「牛肉」
牛肉に犬肉を1/3混ぜたものが「馬肉」として売られている。)

※ここの記述がやや曖昧で、混ぜる元となる肉が「何の肉であるのか」がちょっとハッキリしない。後に出てくる文章から「牛肉」が主たる肉だろうと判断したけど、間違ってるかも。

 

以上のとおり、犬にとって戦前の日本は、なかなかの地獄でした。

戦後もそうなんだけど、地獄度が違う。

以前は「狂犬病を撲滅できた清浄国なんだすごいなぁ」って単純に感心してたけど、そこに至るまでに(ワクチンができた後も)死屍累々という感じだったのね・・・

 

変わり種の対策として「噛みつき防止の箝口具」というのも一時期使われたけど、これも犬が嫌がるし、飼い主も飼い主で無理につけたりせずに顎の下にぶら下げておいて、見咎められたら「昼飯やった後つけなおすの忘れてましたわ(テヘペロ」みたいに言い逃れるので形骸化して終わったというのもあります。

 

しかし読んでいるかぎり、この辺の飼い主の感覚がよく分からないんですよね。

繋いでないと、往来をうろついてる犬なら、飼い犬野良犬無関係に雑にボコるオッさんたちがいるのに、なぜそれにもかかわらず頑なにつなごうとしないのか?

繋いだら可哀想じゃん、ってのは分からんでもないけど、家の門から一歩外に出たら犬目線で見た時にバーサーカーが徘徊してるわけですよ、表には。

なら繋いでやるのが優しさじゃねえの、って思うのは、今の時代の感覚にどっぷり浸かってるだけなんだろうが・・・しかし腑に落ちない過ぎる。

 

しかしこうした雑な扱いも、昭和になるとほんのちょびっとだけ変化が見えます。

大量捕獲の後、飼い主の中に「犬は金を出して買うもの」という意識が芽生え始め、
ペット需要の周りに産業が興り、1935年にはこれらの周辺業者にも規制を加えるために畜犬取締規則を改正されます。

その辺うろついてる犬を捕まえるか、適当な子犬をどっかから拾ってきて

「これがうちの犬」

と称して天下の往来を好き勝手うろつかせていた頃の意識からすると、あまりの変貌ぶり。

これに付随して、業界団体からは雑種犬の駆逐・断種・避妊手術を要望する声も上がります。狂犬病の媒介となる野良犬、雑種犬を減らすのは警察としても願ってもないことなのでこれを後押しするものの、手術の未熟な時代、そうした手術を忌避する飼い主多かったし、何より費用負担も大きく、警察の交付金も少額にとどまるため、けっきょく雑種犬の増加防止には失敗しました。

しかしそれでも、少し前の「うろついてたら見つけ次第ボコる(日没後)」という時代に比べるとやや文明の匂いがしてきます。

 

もっとも、こうした微かな文明の匂いは戦火によって消し飛んでしまいます。

犬猫不要論に見られる世論の高まりもあり、畜犬・愛犬家への風当たりが強くなって

「軍用犬にならない犬なんていらねーじゃん」

という雑な風潮が瞬く間に蔓延し、食糧事情の悪化も含め、畜犬献納運動の圧力が強化されます。

さらにこの風潮に油を注いだのが戦中の狂犬病の流行で、流行源となる犬は全部殺しちゃおう! という熱気はさらに高まり、犬を飼うことの難しい環境が敗戦まで続きます。

この時の畜犬献納運動は「狂犬病の抑止」のためと言いつつ、その裏にはイヌ資源の軍事利用の側面もありました。

犬の毛皮をもって防寒着の足しにしよう、という試みで

「あなたの愛犬も皇国にご奉公するのです!」

みたいに盛んに喧伝されたけど

実際には一番適切な冬毛の時期には殺処分されず、夏毛真っ盛りの季節にぼこぼこ処分されて皮を剥いではみたけどこれ腐っちゃう(夏毛なので防寒用としても効果が薄い)・・・というどこかで見たようなチグハグが展開され、笑えるやら泣けるやら。

 

前回に続いて悲惨すぎる境遇を送る犬ですが、果たして彼らに明るい未来は訪れるのか?

3章 動物愛護の視点 に続きます。

狗はどこへ行った。その1

どこにも行ってない。

殺しただけ。

 

犬の現代史

犬の現代史

 

 文章がけっこう微妙。

章立てが微妙・・・なのかな?

最終章の終りの文がすごく断ち切った感じがする。

章だけでみればたしかにそれでまとまっているんだが、そのあと本全体の著者の言いたいこと・結論みたいなのが出てないのですごくモヤモヤする。

後書きでつらつら書かれてもね。

 

とはいえ、とても面白かったのでメモ。

 

第1章 軍用犬の話。

軍用犬の任務そのものよりも、その軍用犬をどうやって調達するか、の組織の駆け引きが面白い。

満鉄が軍用犬を有効利用していたのに触発されて、陸軍も軍用犬を持とう! ってなったんだけどあいにく陸軍にはそのノウハウがない。

当時、軍用犬に最適なのはジャーマンシェパードだと考えられていたのだけど、その調教とか繁殖に関するいちばんの知見を有していたのが、「日本シェパード倶楽部」(NSC)。

陸軍は、ここのの庇を借りて母屋を乗っ取る工作をNSCの少数の幹部とともに画策して、権力に目の眩んだ幹部の手引きもあって見事乗っ取り成功。

帝国軍用犬協会(KV)を創設して、さあ軍用犬をバンバン育成しよう、と思ったんだけど一般会員がこぞってこのKVから抜ける。育成ノウハウの奪取に失敗してる。

潰したはずのNSCを母体とした日本シェパード犬研究会(NSK)が成立。

残されたノウハウがほとんどないKVは、元NSC会員や他の畜犬業者の協力を得て、なんとか前線部隊の要求する数の軍用犬を供給したけど、現地の指揮官から

「シェパード、何処にいるの?」

と言われる程度の貧相な犬しか集められないという大失態をしでかす。

KVのメンツ丸つぶれで地力の育成にもめちゃくちゃ力を入れるんだけど、一方で元NSC,NSKの協力を得ない事にはどうにも軍用犬の供給は無理、ということも認めざるを得ないところ。世相もあって高圧的に協力という名の強制を強いたんだけど、今度は

NSK側も黙っちゃいない。

かつては好き放題にやられて組織の主導権を軍に分捕られたのを教訓に、軍の手の出せない元宮様を組織のトップに据えた新団体、日本シェパード協会(JSV)を設立して、軍の影響力を極力排除する。

戦局が敗勢に向かう中で、軍のJSVに対する支配を強化しようとする圧力は高まる一方だったんだけど、元宮様を長に頂いた効果もあって、JSVは最後まで組織を存続することができた・・・と。

 

 

ノウハウがないから盗んじまえ、という軍と

軍用犬ファーストで愛犬を使い潰す気マンマンの軍に抵抗する愛犬家の構図がいい。

軍の方は世論操作の道具が幾らもあるし、少数の幹部をポストを餌に釣れば安直に組織の乗っ取りができると考えていたし、それに成功もしたんだけど、性急な組織の軍部支配を目論んだ(元NSCの理事を一人もKV幹部に登用しない)せいもあって、現場の離反を招いちゃう。

これで手に入れるはずだったシェパードの繁殖・育成・調教に関するノウハウや犬籍登録簿・血統書などのデータの奪取は失敗しちゃった。

昔の人も唯唯諾諾と軍部に従うだけの人間ばかりじゃなかったのだなぁ、ってちょっとほっこりしました。

餌に食いつく人も居るけど、そうじゃない人も居る、というのがいい。

んで、ただ背を向けるのではなくて、自分たちの組織の独立を確保したうえでの軍への協力はJSVになってからは継続しているのも、いいと思う。

NSCもKV創設前はそこまで軍に嫌悪感を持っていたわけじゃない。KV発足後も理事は横滑りで対等に合併して新組織ができるのであろう(ならいっか)、という見通しを持っていた。

ところが、軍はそれをせず、シェパードの繁殖ノウハウなどの実利だけをNSCから吸い上げ、NSCの独立性を微塵も尊重しようとしなかった。

この鈍感さが初期の軍用犬供給の惨憺たる結果を産んだのだと思うと、傲慢過ぎる姿勢では仕事は上手くいかないなあ、としみじみしてしまう。

 

それだけではない。

 

軍はどうも想像以上に頓珍漢な組織だったようで、その後JSVも加えつつ、KV自身もシェパード犬の繁殖・育成・調教の施設を開設して鋭意軍用犬の供給体制の確立に励むんだけど

「軍用犬を実際の戦闘・軍隊においてどう活用するか」

の目論見がまったく不透明だったんですね。

まあこれはしゃーない。

軍用犬の利用について意識が盛り上がったのは満州事変での軍用犬の利用が誇張・粉飾されて伝わって(あるいは、軍自身が誇張して喧伝して)

「忠君愛国の超兵器・軍用犬」

みたいなイメージを先行させたのが悪い。

軍用犬そのものを運用したことのない現場の部隊は

これから配備される軍用犬は愛国講談モノに登場した積極果敢に砲煙弾雨を物ともせず突撃する超・優秀犬、というイメージで凝り固まっていた。

一方でKVの軍用犬調教は基本的な動作を修得させたうえで、さらなる専門技能(捜索・警戒・襲撃・斥候など)は前線の部隊で再調教・訓練することを想定していた。

まあ現地部隊にはそんな技能を有した専門兵はいないんですけどね。

 

この辺の認識のズレ、なぜ直さなかったのか不思議だがそこまで突っ込んでないのが残念。

普通に考えておかしい。

送り出し側は最低限の機能を持たせた上で、残りの機能は現地でカスタマイズするものとして供給している。

受け取り側は、受領したその段階でその犬は部隊の要求する機能を十全に達成する能力を持っていると想定している。

このズレを直さなかったおかげで(運よく軍用犬の再調教・訓練を施せた少数を覗いて)、多くの部隊では軍用犬の能力に不満がもたれ、その有効活用ができないまま、送り込まれた犬はただのペットになり果ててしまっている。

 

・・・何のために国費を投じたの・・・?

 

すごくバカバカしい徒労。

一連の経緯、

満州事変で軍用犬がなんかすげー活躍したみたいだぞ!

っていう宣伝で自家中毒起こして

「よっしゃ軍用犬をたくさん配備や!」

ってイキリ返ったはいいけどその供給能力を自前で整備することはままならず、

対立と混乱、衝突を経てなんとか紆余曲折ののち供給体制を確立するも、

それを前線で有効な戦力として運用する体制は整っていない、という泥縄にも程がある展開です。

よくこれで戦争やってたもんだ、ホントに。

無定見でも物事は回るし、その無定見に翻弄される下っ端中の下っ端たる犬ちゃんマジ可哀想。

 

いっぽうで、有効利用されてる犬の扱いもまー、酷いもので。

戦力にならなくなったら適当にポイ捨て。

これがまたなんというか姑息。

戦地で戦病・戦傷に冒されても適切な手当てもされない。

(この辺は兵隊さんでも大差ない貧相な衛生環境なのである意味しゃーないのか?)

それは措くにしても、いよいよダメになった時に安楽死させるのではなく

僅かな食料をその倒れ込んだ傍において放置して進軍・・・というのがキツい。

筆者はこの点をして

安楽死させることができない
・少しの食糧を与えることで償いに変える
・自分たちの主体的な行動であるにもかかわらず、第三者的な受け身の描き方をする

日本の問題点だ、という風に指摘してるのだけど、この認識はちょっと納得。

自分たちで戦場に連れてきておいて、いざ死にかけたら自分たちで手を下さずに放置っていうのは卑怯だよな、「飼い主の責任の放棄だよな」と。

南極探検隊の樺太犬放置のアレと絡めて、「犬を飼う、使役する人間の身勝手さ」を指弾しているんだけども、この場合殺してやる方が幸せ、というか

十中八九、死が見えているにも拘らず適当に食事を与えて放置することで「後は生き抜く力に任せよう」みたいにするのがなんか・・・卑怯だよなあ、と。

自分の手で殺すには忍びないというのは分かるし、自分もやりかねないとは思うのだけども、それでもやっぱり、こういう状況下に犬を追い込んだのもまた人間なわけで。そこの始末は人間が人間の手でつけなくっちゃいけないんじゃねえの? って思う。

人間の都合で引きずり回したあげく、最後の最後で自然に委ねちゃうのは、なんか潔くないよな、と思いました。

 

 

・・・書いてるうちにとりとめがなくなってきたので、続きはまた次回にでも。

比べるべきは国内。

これ。

news.finance.yahoo.co.jp

ネッツでは

GAFAと比べるとクソい、ヌルい」

みたいな感想もいっぱい出てたけど、俺は評価したい。

だって、自分で人材獲得に向けて動いてるもの。

まあ、表題のソニー、さらに記事中のファストリ、どっちも好きか嫌いかって聞かれたらキライなんだ。

キライなんだけど、解の方向としてはこうするしかないよね、って思う。

後ここには出てないけどさらにキライな企業でくら寿司とかいうのも新人年俸1000万~って給与体系持ってる。

これこそが「自己責任」だよね。

人不足ならカネ積んで札束で引っ叩いてでも引っ張ってきて業を回す。

正しい姿ではないでしょうか。いけ好かないけど。

人手不足だけど、それをお賃金を上乗せすることで人材獲得に乗り出すのではなく、賃金を据え置いたまま人を雇える環境を求める、今いる人間の労働時間を増加させて人員不足を乗り切ることを緩和させようと必死で蠢く経団連などに比べると、ずっと真っ当だと思います。

 

こと企業を取巻く環境になると

「俺たちは・・・強いられているんだ!!!」

みたいなオマエどこのガンダムだよ? 

って被害者意識丸出しの経団連などの圧力団体の労働層叩きがニュースになってマジでしんどい。

連中の声のでかさを取り上げるのもしょうがないけどさ・・・上記記事のとおり、自力でなんとか局面を乗り切ろうとしてる企業もいるんだから、そっちももっと注目されて欲しい。

しんどい環境だからろくに給料払えないんだ!

って後ろ向きの連中の泣き言は、必要以上に大きく報じる必要ないんでは?

先に進む奴はちゃんと努力してる。

成果の出ない「俺たち苦労してるぜ」アピールとか、ほんと鬱陶しい。

 

努力不足・自己責任・自業自得

のスローガンが世に出ておよそ20年が経ったんだし、

そろそろ企業経営者(の一部)も

就職氷河期と呼ばれた世代(の一部)を選別・排除したように

その「自己責任」の原則によって淘汰されるべきではないんですかね。

 

自分のケツに火がついたらあれこれ言い訳を述べ立てて逃げようとするのは卑劣な振舞いだと思います。

同じ環境で、それでも頑張ってる企業はいるわけだからね。

ならば

「同じ環境であるにも拘らず泣き言ほざいてる企業は努力不足」

ってのは別に間違ってないですよね?

かつて就職氷河期の連中を切断したときと同じロジックですし。

 

キチンと動けている企業がいる以上

(まあキライな企業ではあるんだけど、そこは俺の好みだから措く)

自社が成長できないのを外部環境のせいにするのは「努力不足」だと俺は思います。

まして、「あんまり成長できていない」自分たちの都合で救済を求め(負担を外へ押し付け)、デカイ口を叩くのはあまりに醜悪ではないかな、経団連

切り捨ててきた労働者側には自己責任を突きつけておいて、自分たち使用者側はそれから免れると考えるのは、歪んでいます。