afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

吊られた男

 

感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか (集英社新書)

感情で釣られる人々 なぜ理性は負け続けるのか (集英社新書)

 

 

読むには読んだがなんだか消化不良。

文章が難しいわけでもないのだけれどなんとなくしっくり来ないというか、それでいてたしかに何か大事なことが書かれているような気がするような。

特に第4章の「コミュニティ」と「アソシエーション」の出てきたあたりから

んんん~~??

という感じで理解が追いつかない。

いちおう「こういうことなのかなぁ??」という自分なりの理解はしたけれども、どうもそれが正解としてハマるような気がしない。

 

この辺がまさに本書でいうところの

公開された自己(open self) と 隠された自己(Hidden self)  

の葛藤になるのかしら、と思ったり。

自分が達した結論について、それが

公開された自己(皆の知っている私)が周りに好いてもらえるような結論か否か

が気になって公開をためらっているのだ、ということなんだろうか? と。

 

 

これまでそれほどたくさん意見を表明してきたわけじゃないけれども

本書を読んで吾が得た知見を表明するのが、

「afurikamaimaiなら書きそう」

という周囲から見たときの想定の延長上にあるのかどうか・・・換言すれば「afurikamaimaiってこういう見方するんだ」

という周囲(読者)の幻滅を招くのではないか? っていうリスクは感じる。

 

それはあなた、自意識過剰すぎでしょう、と吾ながら思う。

たしかにそのとおりだと思うのだけど。

本書を読んでいてドキッとしたんですよ。

 

P88のくだり

・・・(前略)遺伝子組み換えされていない素材で作られた食品でもいい。あるいは放射能の有無や特定の記事に「いいね!」をすることがどれだけ微妙な、しかし切実な問題か考えれば分かるはずだ。・・・・(後略)

 

たしかに、はてなブックマークする時でも(匿名性は相当に高いにもかかわらず)、「周りからどう見られるか」というのはけっこう気にしている。

何気なくアレコレ踏んでは貼っているつもりだけれども、たしかに周囲の視線は気になるのだ。そしてその周囲がSNSやネッツではとっても広いのが困りモノ。

にも拘らず、それでもなお発信し続けたいと願うのだから吾もけっこう因業だなと思うと同時に、本書でも取り上げられるくらい「見られる自分を意識しながら発信する『私』」ってのが広まってるんだから別に吾に限った話ではないよな、という妙な安堵もあったり。

 

 

読みながらモヤモヤとしたものはあったんですけど、この記事書いてて昨夜のことを思い出しました。

正直、本の内容と脈絡はあまりつながってないと思う。

・・・が気になったので自分にとっての備忘録として書いておく。

 

afurikamaimai.hatenablog.com

 

けっこう自分も派手に不満をぶつけてるけど、ブックマーク先のコラムニスト、遙氏の記事ってどの程度まで見られることを意識していたんだろう、と。

発信媒体の強さを考えると、ネッツのリーチ力が玄人やプロとそれ以外の境界をそうとう縮めたといえ、まだまだプロのコラムニストと素人の差は大きい。

だから遙氏にとってみれば話題になってやや炎上気味になるのはむしろ狙い通りで、それを狙って、なかば露悪的に豊田氏への共感を語り、無能な人への苛立ちは多くの共感を呼びうるはずだ、よしんば共感を呼ばなかったとしても、反発を招きネッツで話題になることで、より遠くまでリーチし、今まで届かなかった読者にまで波及するのであれば(遙氏にとって)利益である・・・と考えていたのかもしれない。

 

それはそれで正しいのだろう。

発信力に圧倒的な格差のあった時代であれば。

しかし、今であれば、まだまだ弱いとはいえ素人も発信できてしまう時代なのだ。

炎上して

「よし俺は遙氏につく」「いや僕はアンチ遙氏やね!」

みたいな話題がちょっと盛り上がってネッツ上で知名度が上がるという「よきこと」もあるだろうけど

炎上とセットで知名度が上昇することは

「なんだかめんどくさい人っぽいね」

といった「好ましくないレッテル効果」までも呼び起こすのではないかというのが気になる。

そんなの関係ねぇ!!・・・と言ってしまえるメンタルの強さがあってこそ、プロのコラムニストになれるのかもしれないが、そうであったとしても遙氏が

「可哀想な私が雇ってしまった無能」

と名指された素人からの反撃の発信のリスクは考慮していたのだろうか?

というのは、どうしても気になった。

遙氏が共感した豊田氏の発狂(としか思えないオペラ調の罵倒)なども、以前の力関係であれば公衆に発信されることなどなかったわけですよ(多分)。

出来てもけっこうハードルが色々高すぎたでしょう。

けど今は簡単に録音できる、簡単にネッツの動画サイトで不特定多数に大量に拡散できる。今回は新潮だったけど、そういう旧来のメディアと組めばさらに深く広くどんどん拡散していく。

 

遙氏が「無能」と名指してそれをもって「豊田氏に共感できる」とまで言い切った相手にも、言い分はあるはず。

そうした相手が反駁してきた時の対処もちゃんと準備した上でのコラムだったのかなぁ、というのは引っかかります。

 

完全に憶測でしかなくて、まだ根拠も薄弱なのですぐに撤回するかもしれませんが、どうもプロのライターさんほど「炎上」を舐めているか、意識していないんじゃないかという気がする。

情報の発信において圧倒的に強者であったが故の感覚なのかしら?

今ではその情報を受け取る側も発信する術を持っている(リーチする範囲はかけ離れていますが)から、ひょっとしたら手痛い反撃を食らうかもしれないということは覚えておいたほうがいいと思う。

ネッツでライターさんの愚痴のようなものを読むと

クレーマーが~~」みたいなことを書いていておおむね首肯できる主張なんだけど、ときどきうん?? ってなることもあった。

クレーマー認定してる相手が実はまっとうな反論をしてるだけなんだけど、そういうまっとうな反論が届くことが今まではなかったので、情報発信の強者側に位置するライターさんはイマイチ鈍感になってるんではないかなぁ、と。

 

・・・つらつらとこういうことが思い浮かんだのは

本書のP121~P124に刺激されたからだ、と思います。

とくに

「自分の信念を言って、スッキリしたい」 のくだり。

 

遙氏のコラムは吾の読むかぎりまさにこれだと思う。

そしてここでようやく思い至ったのだけど、かのコラムは読者の説得や同調をその目的とするのではなく、

「コラムニストが自分がスッキリすること」を最優先課題として書かれたものではないのか、ということに気付く。

 

なぁんだ。

・・・かくして記事タイトルへとつながる訳でございます。

吾、みごと釣られたり。

でもちょっとやっぱりイラついてるよ。吐いたツバ呑まんとけよ、って思ってるよ。

 

長々と書いてしまった。

まさかなんか話題になったアイドルとちょろい共著書いてる人でしょ(笑)

(じっさいそれで気になってちょっと手にとってみた)

って思ってた筆者の新書にここまでアレコレ考えさせられるとは。

アイドルの結婚騒動もゴシップとして暇潰しに消化させてもらったけど、思わぬ果実を手に入れたっぽい。

新たなホントの出会いを作ってくれた、ネッツで派手に炎上してたアイドルに感謝しないといけない・・・かな?

 

人生を危険にさらせ! (幻冬舎文庫)

人生を危険にさらせ! (幻冬舎文庫)

 

 けどこっちは先入観もあってとってもハードルが高いので、読まない気がする・・・。

ニーチェネタは 

図解でよくわかる ニーチェの哲学

図解でよくわかる ニーチェの哲学

 

 (ニーチェ分かった気になれた。ホントに分かったかは不明(きっと分かってない))

 

いたこニーチェ (朝日文庫)

いたこニーチェ (朝日文庫)

 

 この2冊しか読んだことないけど。

筆者が堀内氏なら、共著でも少しは得るものあるのかしらん・・・?