afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリ

怖いんです、怒鳴る人は。

住んでいる場所は、公園へと続くコースからは外れている。
にも拘らずこの時期は街宣車の音がよく聞こえる。
・・・明日は六日だものね。

町へ出ると、今度はお城付近やドーム付近でデモ隊のシュプレヒコールが聞こえる。
風物詩ではある。
広島に出てきてからだいぶ慣れたけど、田舎から出て来てはじめて見たときには大いに驚いたもの。牛田大橋のあたりの交差点で、右翼の街宣が10台くらいずらりと並んでいたのを見たときは壮観だったなぁ。全国からこの時期遠征してくるのだ、っていうのを実感した光景でした。
高速のインターも近いし、きっと高速道路使ってあちこちから集結したんでしょうね。

初めの頃は、うるさいし何だか(両方とも)気持ち悪いな、と思っていました。
今もそうした気持ちはあんまり変わってませんが、ただ気持ち悪い、というだけじゃなくて、すごく残念な光景だと感じるようになりました。

反米、親米のベクトルはさておき体制を攻撃する左翼を痛罵し街宣で大音声を鳴らす右翼。
核廃絶と平和を訴えるものの、少し掘ればそれは体制批判の便利なパワーワードでしかないことがバレバレの左翼。
鎮魂と追悼を前面に押し出したルーティンのような特集やら企画やらで目白押しのマスメディア。

ほぼこの三つのベクトルに、意見や言葉が集約されてしまう状況。すごく不毛だと思う。
もっと濃淡あるでしょうよ?

去年書いたけど、被爆直後の広島で「仇をとってください」って斃れた人もたしかに居たのにも拘らず、
この辺の恨みつらみを抱えた人たちの霊魂に応えるような言説なり意見なりが出せないような雰囲気。

「復仇未だ成らずもけして諦めず」

こういう形で死者を弔う回路があってもよろしい、というか、恨みを持って亡くなった人への鎮魂はある程度そうした色合いを含まないことには鎮魂として機能しないのではないか? それを受け止める者が居ないってのは悲劇なのではないか? と思う。

反米という形でそれは残っていなくもないんだけど、「俺たちの先祖泣かしたアメリカいつか泣かす」という明確な反発とはちがうし。
まあ明確な反発ってつまり「もう一回戦争して次はアメリカぶっ倒す」という非常に物騒極まりない主張につながるのでとても無理だけど、感情としては、そういう気持ちを抱えて死者の恨みに応えるみたいな構えがあってもいいだろう、と感じる。
感じるんだけど。
それをおおっぴらにしてはいけないような雰囲気に覆われてる。
上記に挙げた三つのベクトルに掬い取られない形での意見の表出が抑え込まれているみたいな重苦しさ。

上の二つは声のデカさで周縁の言論を封殺する感じ。
タイトルどおり。Zガンダムという古い古いアニメのおかしな主人公のセリフですが、これには心の底から同意する。
街宣の言葉の過激さもそうだけど、左翼の人のスローガンもちょっと過激すぎて第三者が見たらギョッとしますよ。

そんなのが主流として表に現れている → これらはヤバい奴らだ

ってなるのもむべなるかな。内部統率で抗争し続けるのもいいけどたまには外からどう見られているのかを気にしたほうがいいんではないか。


下の鎮魂と追悼も厄介で、どうも天災の類と同じ形で処理しようとしてるのが違和感がものすごくある。
あんまり上手く言えない違和感だったんだけどようやく少し言葉に出来る気がする。
慰霊碑で「過ちは繰り返しません」言ってるんだから当時の日米どっちの過ちだったと解釈するにしても、それが人の為した災厄だってのは理解してたはずなのに、いま「誰某の過ちゆえにこうなったのだ」という名指しができない空気感が気持ち悪い。

アメリカが残虐やで・・・と言う話で仕立てたら親米のノイジーがクレームするだろうし
当時の日本の軍部がアカンかったんや! という話で仕立てたとしても愛国のノイジーがクレームするだろうから
中の人的に原因にまで踏み込むのはめんどくさいってのは分かる。分かります。
けど人の為した過ちだって認識を持ってる人が居る(居た)以上、天災と同じように「しゃーない」って処理で鎮魂されたり追悼されたりする魂ばかりじゃないこともまた確実なんですよ。
昔は体制批判とかもやってたみたいじゃないですか。アメリカいつか泣かす、ってベクトル仕立てはあんまやってなかったみたいだけど。
もっと掘り下げていけばいいですよ。「誰某の過ちだ」って名指していいですよ。意見の衝突もクレームも上等ってスタイルで行きましょう。

右翼左翼みたいに「俺が絶対無謬で、お前の意見はきかねー」ってのも不毛ですけど
「これは天災だからあれこれ考えてもしょうがなかったんやで」ってのも逃げでしょう。
いまのマスメディアのやってる伝え方って「追悼と鎮魂のために静かに祈れ、混ぜ返して無粋なことを言うな」っていう無言の封殺に見える。

無粋だろうが何だろうが、そうして混ぜっ返して、かつて存在したことを思い出させないと永遠に零れ落ちたままになる死者だっている。
恨みを持って死んでいった死者の魂を「なかったこと」にしてしまうのって不健全です。いずれおっきな祟りがあります。少なくとも吾はそのように信じています。
だから「なかったこと」などにせず、いろいろな思いを抱えて生き、そして死んでいった死者がいたのだってことを、忘れずに自由に語れるような環境を整えていきましょう。

 

 


・・・と言うような事をつらつら考えられるようになったのは「この世界の片隅に」を見たおかげだと思う。

やっぱりよくあるパターンに掬い取られない生き方とかあるんだ、って確信した。 

 

 

 


ラストのすずさんの激昂と径子姉さんの嗚咽は画期的だったんではないか。

ああいう形で敗戦を迎えた人間が居たってことをおおっぴらに出来たのはすごい。

伝えられてきた敗戦の姿ってかなりステレオタイプだったのを、崩していけるきっかけになるんじゃないだろうか。
今までの敗戦や終戦の時に語られてきた市民像とは異なるので、受け付けない人も居るかもしれない。
けれど、その人その人で敗戦の受け止め方に濃淡があるってのは少し考えれば当たり前のこと。
その当たり前をちゃんと描ける、当たり前を気付かせてくれるというのはとてつもない映画だなと感じました。

今夜また見てくるけど、ちょっと躊躇もあるんだよな・・・空襲シーンが怖い。