語源知らないまま、なんとなくイメージで使ってる事に違和感のない言葉がある。
それがあちこち伝播して多少はその言葉の出自、本来の意味を知ってる人が
「お前らのそれは誤用である」
って注意するんだけど、言葉の響きに後からくっついてきた意味の方がホントっぽいのでそっちの方が流通しちゃうということも、ままある。
反知性主義(はん-ちせいしゅぎ)
という言葉も、最初の出自を知ってる人からすれば自明の本来の意味があったけど
ぱっと見て思い浮かぶ意味の方がしっくり来る言葉だと思う。
「ほーん。要するに「知性に対するアンチ」ってことだろ?
つまり「バカでいい主義」ってことジャン??」
みたいなニュアンスで、会話中、相手をバカにするようなシーンで聞く事使う事が多かった気がする。
これはいかんと思う。
フィーリングで曖昧な言葉を使い慣れると、ふわっとした議論が大好きで主語がバカでかい、はてなもふたばも大好きな言論マウンティング合戦に傾きがちになってしまう。
そこに染まるのは吾の好みではありません。
なのでちょっと読んでみた。
本当の名付け親は
リチャード・ホーフスタッター(「アメリカの反知性主義」1963)
だってのは知ってる、もとい上の本読んで知った。
- 作者: リチャード・ホーフスタッター,Richard Hofstadter,田村哲夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2003/12/20
- メディア: 単行本
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けど長すぎて読めるかよ!!
吾には新書でじゅうぶんなんや!!
・・・うん、これこそまさに、巷で流通する反知性主義的な態度
(佐藤優いわく「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」)
かもしれん。
原書(の訳書)のほうもいつか読むべく頭の隅に入れておく。
いつになるかは分からない。
閑話休題。
読み終わって思ったけど、反知性主義ってのは訳が悪いんでないか?と思ったよ。
しかし anti-intellectucualism ってのを訳すとこうなるしかないのか。
とりあえず、
反知性≒バカ
みたいなイメージはまるきり払拭されて、どちらかというと
反知性≒反権威
の方が正しいんじゃないか? という認識になりました。
本書でも実際にそういう傾向が強いって端々で触れてるし、
現行の知性に対するべつの知性、という風に定義してる。
米国では反知性主義が激しくなる波があるけど、それはいずれも権威と結託した知性・知識階層への強烈なダメだしであって、現行の価値序列を形作っている知性とは異なった視点に立つ知性でなければならない、と。
現在主流派である知性に対抗して、価値序列を提示できるような、異なる視点を持つ知性がなければ、反知性主義ではない。
主流派の価値序列の枠組みを維持したまま、上と下だけをひっくり返そうというのはただのルサンチマンである、のだと。
こういう風に説明されると、普段ネッツでみんなの勝手理解で使われてる
「バカが下克上したい主義」
(現行の価値序列は維持したまま、下が上を引き摺り下ろして成り上がる)
でしかなくて、本来的な意味の「反知性主義」とはまるっきり別物だなぁ、と思う。
反知性主義、思ったよりもかっこいいルーツでしたよ。
うかつに投げつけたら褒め言葉になってしまう。気をつけよう言葉の取り扱い。
さておき、本書の面白いのはそういうところじゃなくて
反知性主義と後から名づけられるに至るアメリカンの信仰復興運動(リバイバル)のダイナミズムと、それを支えたキャラクターたちの溢れ出る個性とバイタリティの活写だと思う。
ぜんぜん知らない人ばっかりだったけど、どの人も実にキワモノなんだけど目の離せないすごい役者ぞろい。
実際にリバイバルの牽引役には演説・説教の上手さが求められるから当たり前なんだろうけど、紹介されるエピソードがどれも面白い。
時代を下るごとに派手な演出になっていくんだけど、素朴な時代でも桁外れの動員力を誇る、リバイバルのリーダーたちの凄まじい逸話に事欠かない。
あと、リバイバルは盛り上がったり沈滞したり、数次の波を繰り返すんだけど第3次のリバイバルまでのリーダーたちのそれぞれの運動の性格の変遷も面白い。
最初の純粋素朴で熱意たっぷりなエドワーズから
リバイバルをビジネスにする端緒をつけたプロデューサー、ドワイト・ムーディ
(と歌手アイラ・サンキー)
それを洗練させてビッグビジネスに昇華したビリー・サンデー
まで、それぞれ表出の仕方は異なるけど「熱意溢れすぎる人」なのも興味深い。
暑苦しくて鬱陶しくなるようなエピソードに事欠かない人たち過ぎる。
大前提として、
ピューリタンたちは新大陸に渡ってきたとき
「神の前に人は平等!! 神父が信徒に「神の言葉を取り次ぐ」とかありえねえよ」
「聖書解釈・聖書理解は、信徒それぞれが神と直結する回路を作る作業である」
「聖書を読むために必要なのは「学識と教養」である、これさえあれば良い」
「じゃけんこれをガッツリ鍛えましょうね、聖書理解のための特別授業(神学)なんぞ要らん」(byハーバード)
というのがあって、この「神の前に人は平等」って大前提が後の反知性主義の母胎になるわけです。
その後、社会が安定して教会に牧師が居て、信徒が説教を聴くスタイルが定着してきたので
「なんか古いカトリックっぽい権威くささが現れてきたよね」
「神の前に人は平等なのに、なんで牧師は学位がないといけないんだおかしいだろ」
「牧師認定は教会がするっていうの、これ神に対する万人の平等に反してない?」
という流れで既存の教会体制への対抗としてリバイバルが勃興。
以後のリバイバルもおおむね、体制が硬直化しかけたときにそれに対する反撃として盛り上がってるのが面白い。
アメリカンには人は神の前で平等でなければならない、という強烈な深層意識があるので、世界で人の手によって序列が形作られ、それが固定されるのを極端に嫌うエネルギーがリバイバル(や反知性主義)の根幹にある。
だから知性そのものへの敵意は薄い。
知性の象徴としての「ハーバード・イェール・プリンストン」には害意はないけど
それが何らかの権威との結託の臭いをまとった時に
「ハーバード主義・イェール主義・プリンストン主義」
として激しい攻撃対象になる。
この
知性と権威が結託して何らかの価値序列を社会において固定化しようとしたとき、
反知性主義は牙を剥くのだという説明はちょっと目からウロコでした。
進化論について聖書原理主義的な人たちがめっちゃ反発してるのはその人たちが阿呆だからではなく、
それが、
上からの強制という形で、それとは別の仕方で世界を理解している人たちにまで被さってくる
「進化論」という、定説化してるといえ一つの学説が、政府という権威と結託して、学校教育という形でそれを良しとしない人間たちにまで強制されている。
その不平等への反発なんだと。
権力の特定の知性への肩入れ・・・それ自体が平等を踏みにじっている、というモノの考え方は極端だけど徹底してるなと思いました。
それじゃどうやって教えれば、学べばいいんだ、って思うけどその辺は自由・あなたの選択に委ねられているのだという理屈も含めて、本当に徹底してる。
ガチである。
反知性主義ってのは建国以来の伝統が産んだかなりしっかりした思想の一派になってるんだな。軽々に使ってよい言葉ではないんです。
今後気をつけよう。
本書でもっとも気になった
最後発のリバイバル指導者(いま流行ってるメガチャーチのマッチョガイたちはなんか違う)であり、リバイバルをビジネスとして完全に確立した最初の指導者であり、矛盾の塊である元メジャーリーガー、ビリー・サンデーは映画にもなってるみたいなのでちょっと見てみたいですね。