強いSE、弱いSEの話を外野から眺めながら思った。
どちらの意見も、はてなブログや匿名ダイアリーの増田やらで極端に振れてるんだと思うが、おもしろい。
丁稚奉公的ななにかであること、を容認するにしても、法定最低賃金と残業規制程度の線は守った方がいいんじゃねえかな、と思ったけど、今ではこれすらも理想論なんだよね。
弱いSE、とされる側が現状への不満を表明するにしても、残業はいっぱいあるのだがそれは能力の不足のせいとして残業代も支給されない、みたいな状況ではそりゃあ文句言うよな、って思うのだ。
一方で生き残った強いSE、とされる側が、俺はこの環境でもまれて強くなった。この環境に適応できないお前が弱いだけだし、弱いお前がこうして飯にありつけてるだけマシだと思えよ、という主張も視野狭いけどすごくわかる。
つか、皆だいたい自分で一生懸命だしね。
自分が救われてるのなら、それでいいじゃないか、ってなるのは自然。
そこから想像力をもって
「自分は救われてるけど、自分と大して変わらない人が救われてないのは、ちょっと拙いんじゃないか」
って考えられる大人はことのほか少ない。
少なくなった、というほうがいいのかな。
国の成員のマス部分が相対的に貧しくなったおかげで、そういう周りに目を向ける余裕がなくなったし
構造そのものの不備を想像する前に、「自己責任・努力不足」で周りを削ることへのエクスキューズも獲得できた。
それが悪いとは言えない。
人間はまず何よりも自分が生き残ることが大事であって、「周りの人」のことにかまけていたら自分自身が競争から振り落とされる、という環境であれば、「周りの人」をぶっ飛ばしてでも生きていくことに是非はない。
けっきょくのところこれが分断を生んで、経営やら体制やら、よりおっきいモノにとって都合のいい社会を生みやすくなるのだとしても、そこで個人を責めてもしゃーない。
世の中を変えるって、資力と想像力と胆力が必要なんだと思う。
自らを支えるに足る資力。何があってもゆるぎない程度には強いやつ。
周囲への想像力。分断されている水平的関係を超えて、上部の不具合に気付く力。
不正義を正す胆力。味方が一人もいなくても突き進むだけの決意。
三つを兼ね備えてる人間なんてめったにいない。
だから不毛な争いは、たぶんずっと不毛な争いのままなんだと思う。
件のネタでいえば、
弱いSEには自身を取り巻く理不尽に気付く想像力があっても資力がない。
強いSEには自身を支える資力はあっても、理不尽に気付く想像力がない。
どちらが良い悪いというのではないが、どちらにも現状を変える力はあるまい。
どうにかしたいのであれば、
弱いSEはまず資力をつけよう。
強いSEは想像力の貧困を自覚しよう。
連帯することは絶対叶わないから、それぞれまず自分を救おう。
自分のガス抜きのために、愚痴った他人をぶっ叩くのもやめよう。
そんなことを思った次第。
世の中はすぐすぐ変わるもんじゃないけど、学校教育の段階で若者に
「最賃守れない経営者はアホ」
「残業に関する規制・告知義務を守らない経営者はEvil」
ってのはいっぱい叩き込んでおいてあげるのが大人のせめてもの優しさじゃないのかなあ、ってちらっと考えました。
自己責任論者に言わせれば、それすらも「知らなかったお前が悪い」甘えってことになるんだろうけどね。吾は教育機会を与えないまま「無知であること」を指弾するようなのは、大人と認めたくないのです。
丁稚にするにしても、就労者側の無知につけこんで最低線思いっきりブチ抜いてろくでもないことやらかしてる経営者こそがガンってのが等閑視されてるようで、えらいモヤっとしたので書く。