afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリのはずだったが、今は路頭に迷ってる

加工と虚構。

※ここのところ思いついたことをそのまま書いてるだけのブログです。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

この記事とても興味深かった。

ほぼ納得だし、記事そのものについてのイチャモンではない、ではないのだが。

この筋に乗せて考えるとどうなるんだろ? ってふと疑問に思ったことがありましてございまして。

 

 

ちなみに、「正直」の「加工」とは、「嘘」をつくことではない。 嘘をつくことは、他人に対して隠し続ける難しさに加えて、自分自身に精神的・記憶的負荷をかけつづけるという難点がある。だから「正直」の「加工」のつもりで嘘をつく人は早晩行き詰まることになる。

「加工」してない「正直」は食えたモンじゃない - シロクマの屑籠

「正直」の「加工」とは自己欺瞞であってはならない。そうではなく、自分の内心にある正直の一番似つかわしい部分を取り出したり、社会的に最も似つかわしい姿にフォルムチェンジさせたりするものでなければならない。

「加工」してない「正直」は食えたモンじゃない - シロクマの屑籠

 

ふむ。

と思ってこの記事を読み返すわけです。

ryukyushimpo.jp

 

この記事のはてブツイッターを眺めてる時に散見される

「嘘をつくことへの悪びれなさ」って何なんだろう、、、って思った時に

シロクマ氏の記事に寄せて考えると、けっこうそこそこ理屈が通るんじゃないかな、と思ったわけです。

 

産経紙の正直な欲望は、普段の言動から推測するところ

在日米軍を褒めたい」

在日米軍を貶める在沖縄マスコミを懲らしめたい」

ってところ(だと思う)。

 

んで。

産経新聞の高木桂一那覇支局長の配信した記事、吾の視点から見ると

「これって沖縄県警にも照会してないし、在日米軍の公式声明で否定されちゃったし…デマだよな?」

って感じるんですけど、産経の読者界隈から見たら、これも「加工の一種」になってるんじゃないかな、と考えたわけです。

 

だって、産経紙も、その読者の多くも、

嘘をつくことは、他人に対して隠し続ける難しさに加えて、自分自身に精神的・記憶的負荷をかけつづけるという難点

を全く自覚していないようにふるまっているし、そこに

自己欺瞞

の風合いはまったく見受けられないんですもん(吾の目からは)。

 

うまく言えないんだけど、なんというか・・・

属する社会・環境の違いによって、許容される「加工された正直」の幅はそうとう異なってくるんじゃないか、と感じたの。

※良い悪いはここではひとまず措きます。

吾のように産経紙の普段の言説に偏見のある、外側の視点からは

「こいつら嘘っぱちで他人をひっぱたくクソだな」

て見えるんですが、界隈の中の人から見たら

「単に「有り得そうな話」をデコレーションしてモリモリに盛っただけであり、嘘ではない」

って「ちょっと派手に加工しただけ」と捉えられているんではないかと。

いわば彼ら「中の人」にしてみれば、産経紙の報じたようなウソ美談(吾の視点では)であっても、内部の社会においては

「社会的に最も似つかわしい姿にフォルムチェンジさせた」

よろしき記事であったのではないか、と思うのです。

 

ここまで考えて思ったけど、この手のウソ美談の受容って何も産経や保守界隈だけの話じゃないよな。逆もまたしかり。ベクトル真逆でも割とやってると思う。

「いかにも有りそうなこと」をぷくぷくに膨らませて、己の正義感に合致するような甘味料をまぶしたうえでコロン、と目の前に転がされたら、吾も転ぶかも。

んで、「嘘でもこれはいい嘘だ」って自己欺瞞の意識もなく、すんなり飲み下してしまうの。

 

あかん。

これはあかん。

人の振舞いとして、めっちゃ吾の好みではございません。

 

己の教育スキルはあまねく相手に通用する、という自己の欲求に従い

発達障害は伝統的な家庭のしつけで矯正できるぞ」

って虚偽を喧伝している親学にすり寄る教員みたいではないか。

 

手段問わず子供を良導したい、という自己の欲求に従い

薩長の芋ザムライが江戸っ子虐殺しまくったゆえに失われた江戸しぐさ

ってファンタジーを道徳の基本に据える人々のようではないか。

 

なんでもいいから子供に素直で素敵な言動をさせたい、という自己の欲求に従い

水からの伝言

を全力で推進し続けたTOSSのようではないか。

 

吾が気付いたのはこの辺だけど、きっと吾の周辺、吾自身にもいつの間にか受容している、外から見たら加工の範囲にとどまらない、虚構と虚飾の形で提出されている「正直な欲求」がうじゃうじゃ転がっているはず。まだ自覚できていないだけ。他人の振り見て我が振り直せ。他人の振り見る前に気づけよ吾。

 

 

正直は加工しないまま出すのは拙い。

けど加工に加工を重ねすぎると虚構になる。

時としてその虚構すらも、欲求を肯定するためには受容する空間へと人間は誘い込まれるけど、そこで踏みとどまるのが、大人というものなのかもしれない。

 

そんなことを思った次第。

吾も自覚しないとね。

自己の欲求に正直であるあまり、その欲求を肯定してくれる、他者の正直な欲求・・・多くの場合、加工されまくってもはや虚構になってるモノ・・・に安易に乗っかるのはNGです。ご用心ご用心。