後半ダラダラするけど割と実感に即してる。
あくまで吾の実感、に過ぎないけどね。
「一億総特攻のさきがけ」だったはずの大和は、僚艦とともに、幾多の将兵とともに
「徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、「大和」轟沈シテ巨體四裂」(戦艦大和ノ最期)
して戦争は終わった(負けたという言い方をしないのは卑劣極まりないと思うが、そういうことになっている)。
しかし、「一億総特攻」である以上、その後に続くはずだった我々(の父祖ら)はどうしたのか?
・・・GFはさきがけとして説得し、1YBもまた納得した以上、続くのが当たり前と言えぬまでもそうあって然るべき態度だったはず
・・・にも拘らず、我々は(我々の父祖は)それに続く道を選ばなかった。
玉音放送の後、生き延びてしまった。
事の是非はここでは一旦措く。
父祖が生き延びたことで今の自分があるという事実を前にすれば、現在こそ「あって然るべき」歴史のあり方だと考えるのが自然だろうからだ。
しかし。
たしかに我々の父祖は「後に続く」と激励して先の戦争の戦死者たちを見送った(とりわけ特攻においてそれは顕著だ)。
「反対していた人間もいた」というのはその通りだし、事実だろう。
「マスメディアが扇動していただけ」まさにそれも事実の一面であるに違いない。
オレの父祖から一族郎党全てが、特攻にも戦争にも反対していた、だからオレは「あの戦争」において「続くから先に死んでください」といった世論一般とはいっさい無関係だし、責めを負う謂われはない!!!!!
という人があるのであれば、なるほどまことに然り。
しかし吾にはそれは出来ないと思う。
「後に続くから先に死んでください」そう言って送り出したにも拘らず
我々の父祖、いや少なくとも吾の祖父母は続くことなく、故に今吾はここに居る。
祖父たちは徴兵され戦地で敗戦を迎えたが、なればそれを免罪符として吾は
「祖父はつづく覚悟であったが、その機会が与えられず出来なかった」
と釈明すればよいのだろうか?
ちがうだろう。
ほんとうに「一億総特攻」を達成する覚悟があったのであれば、それに続いていた未来だってあったはずなのだ。
敗戦の詔勅、すなわち絶対者の命令であれ、死して神となった(さきがけた)特攻の戦死者たちもまた「絶対者」だろう。
彼らに対してなした約束を、義理を果たす覚悟が残された生者にあったのであれば、「一億総特攻」のその先に続いていた未来(本土決戦とかな)だってあったはずなのだ。
そうしなかったのは「生きたい」という願望があってこそだと思う。
ギリギリの土壇場になってようやく死ぬのが怖くなって、先に送り出した人間たちを裏切った。
生きたい、そう思ってくれたからこそ今吾はここにいるのだと思う。
しかし。
先に送り出した人々との約束を反故にしてしまった申し訳なさ
生き延びてしまったことへの後ろめたさ
これは永劫に消えるものではない。 と吾は考える。
「死者との約束を反故にして生き延び続ける」
というトラウマはあまりにドギツい。正視できるモンではない。
戦後という時代は
「生きる」ことへの無制限の賛歌に満ち溢れた時代になった。
「生きる」ことを捨てても守るべき「なにか」があるとともに信じ、そしてそれに殉じた人々がいたことを「なかったこと」にして。
それが良いのか悪いのか、判断は別れるところだろうけど
「なかったこと」にしても実際には「あったこと」
なんだから、どういう形であれ、いずれその現実と向かい合うことになる。
その時正気を保っていられるかどうか、吾はあまり自信はない。
本書でもっとも印象的なことを一つ。
復員直後、吉田満は「戦艦大和ノ最期」を
「天下ニ恥ヂザル最期ナリ」
と結語した。
しかしその後
「今ナホ埋没スル三千ノ骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」
と改稿している。
この部分に関して本書はそれほど深く触れていないのだが
(後半の艦これ~云々よりはここを掘り下げたほうがよほどよかろうと感じる)
復員直後の吉田はまだ「後に続く」覚悟が消えていなかったのではないだろうか?
しかし生活の日常に流されていくうちに、もはや「大和の同胞」に続くことができない自分に気づいたが故に改稿されたのではないだろうか?
復員直後、吉田の魂はまだ彼ら(大和の同胞)とともにあったのだと思う。
だからこそ「天下ニ恥ヂザル最期」である、と彼らを寿ぎ、そこにいずれ続く自らを誇ることが出来たのだろう。
しかし彼らを顕彰しそれに続いて散るはずであった己はもはや居なくなったのを自覚したとき、そう書くことが出来なくなったのではないか?
彼ら「大和の同胞」と、吉田との間にあった一体感が失われて完全に断絶してしまったのを自覚したからこそ「彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」となったのだと思う。
本書では「戦艦大和ノ最期」の底流に流れる
「生き延びてしまったことへの弁明」
に着目しているが、この結語の改変はむしろ、吉田がそうしてツラツラと書き連ねた「生者からの視点」による「死者の評価」を、最後の最後で死者たちが拒絶したことを示したものではないかと考える。
生者たる吉田が如何に思おうとも
(「天下ニ恥ヂザル最期」と思おうとも)
死者との関係性はもはや断絶していて、想像するしかない。想像できない。
(「彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」)
ともに死線を潜ったにもかかわらず、それほどの経験を共有していながら、戦後という時代の中で、死んだ者/生き延びた者の完璧なまでの断絶によって彼らの胸中を理解することが出来なくなっている筆者(吉田満)。
いわんや(ともに死線を潜るどころか、戦争すら知らない)我々をおいてをや。
生者の視点から戦死者を顕彰し/侮蔑し/無視し続ける戦後という時代に対する痛烈な批判であり、現代においてもその批判は有効であろうと感じる。
生者たる吾が彼ら(死者)のことを語る(考える)時に「生者の視点」になるのは不可避だけれども
「生きていることそれ自体が、彼ら(戦死者)を生み出した側に与している」
という自覚は、せめて彼らのことを考えるときには、忘れないようにしたい。
この裏切りの清算をつけないかぎり、戦後は終わらない。