真面目な話は増田とはてブがやってるんで単なる感想。
このての質問見るとほとんど反射的に通り魔たちの「誰でも良かった」を思い出す。
誰でも良かった割にはムキムキマッチョには向かわず確実にやれそうな奴ばっかりぶっ潰してるアレね。
警察発表の作文かも知れんけど、何で皆あんな判で押したように「誰でも良かった」言うんだろうかと。
通り魔やらかすくらいオワコンであるにも拘らず
「誰にでも立ち向かうかっこいいオレサマ」
「無差別殺人を我が手で成し遂げる伝説の男」
みたいなセルフイメージ持ってんのかしらん、と。
実際にはあからさまに「自分より弱そう」なのを選好して襲ってんですけどね。
「誰でもいい」って嘯く通り魔と
「殺しちゃ駄目な理由が分からん」って問い立てをする増田と
吾の中ではちょっと重なってて、分類フォルダが一緒になってる。
どういうカラクリで一緒になってるのかは自分でもあまり上手く説明できないのだが実行可能性について深く検討した形跡の窺えない口だけ野郎、というイメージで括られてるんじゃないのかな、と思っている。偏見だけどね。
しかしこの偏見を抜け出す必要はあまり感じてない。
非常に薄い考察だけども。
「殺してダメなの?」という問いの前提として「殺す自由は担保されている」、にも拘らず制限されている、という構えがある、と吾は見做している。
であるなら、その問いを発した者は、他者の「殺す自由も担保されている」という件についても自動的に受容するという姿勢になるはずだが、そうならないのが解せない。
ただ「己のみ」が殺す自由を行使しうる、それが制限されるのは何ゆえか
っつー問い、答えなくてはならないのだろうか? って。
殺すつもりなら殺される覚悟はあるの? という反対側からの問いに耐え切れないじゃないこれら。
マッチョボーイなら「俺は強いからイケル」ってなるかも知れんけどさ。
大概は「己もまた殺害の標的である」というポジションを取らないよね。ほぼ自動的に己を優位者に設定してそれを自明として問いを立てる。
この辺もたぶん、この手の問いに対するイラツキの原因だと思う。
問いを立てた奴が、俺の「人を殺す自由」をいざ実行の段! となった際に「反撃してこないのを自動的に選り好みしてんじゃん」ってなるのが目に見えてるこの感じが、通り魔たちの
「誰でも良かった(誰でも良いとは言ってない)」
にスゲえ被るからこそ、どう分類のフォルダーに突っ込むことにあまり違和がないのかな、と気付いた次第。
だからどうだ、ってワケじゃないけどね。
元増田の追記読むと
「今まで大丈夫だった延長線上で自分の優位性は揺らがない世界」
でふわふわ遊んでるお子様の問いだったようで、ますます偏見を補強してくださった。
ありがとうございます。
もうちょっと大きくなって、自分も殺される側に回ってなお「殺したい」と思うときに再度お尋ねください。
世界(他者)と対峙するときに上下の構え(なおだいたい自分が優位に来るもよう)が染み付いててそれを疑わない人ってつまんないんだよね。増田たち優しいな。
吾はそんなつまんない子と真面目に話する気になれないのです。
殺し殺され殺し合いが常態化した状況下で
「それでもなお人は殺してはならないのです」
という理屈を打ち立てる、考えてみるってのなら面白そうだけど、吾の頭には余る話でございます。
※あとこういうのも好き。
原理原則を確立した後、即打ち捨てよという、こういう構えの問いなら
「殺すのがダメなのなんで?」
って問いも面白いんだろうな、って思ったの。
仏教ぜんぜん知らんけど、たぶん「殺しちゃ駄目だぞ」って悟り打ち立てた次の日には「殺さなきゃダメだぞ」みたいな理屈を用意してるとか、修行の中にそんな一箇所の常識に留まってられない課程が用意されてんだろうなって思うとゾクゾクする。
理解の及ばない世界だけど、そういう体系があるんだっていうのは何かほっとする。
何故にほっとするのかは分からんが。