啓蟄である。
昨日の記事と微妙に被るんだけど、季語というのが微妙な気がする。
ぼんやり眺めてるかぎりでは新しい季語がドンどこドンどこ追加されてる印象なんだけど、誰が決めてるんだあれ。
パッと思いついたのでは・・・カボチャお化けとか首抱えた人形とかスポンジボブに変装して狼藉を働く舶来の蛮習。あれも「季語」としてOK牧場って風味の空気が謎。
直近で思い浮かぶのは「恵方巻」ね。あれもなんか「季語」にしてええやん、みたいな雰囲気を感じる。
なんなのなの。
そんなふわっとしたものでええんか。
誰か俳諧の偉い人が雁首揃えてうんうん唸って全員投票の結果
「今日からこれは季語だぜ」って決めてるとかじゃないのか。
まあええ。
そういう新しい季語をガンガン追加していくのもイベント性があって楽しいんやろ。
けどね。
そうやって追加した新語の季語が持て囃されて、今まであった季語がピンとこなくなる、ってところ、あるんでないの?
いやこれはN=1でしかないから完全に独断と偏見なんだけども、24節気ならそれにちなんだ句が割とポンポン出てきてたと思うんだ、昔は。
天気予報なんかの枕で「今日は雨水です」だの「今日は立春です」だの紹介するときに、ちょっと名の知れた俳人の句を一緒に紹介して、こういう風に感じられるとき、季節がちょうど今日なんですよ、みたいなことをよく言ってたと思う。
今日はそれがないんだなぁ。
いや今日に限らず、24節気がすごい存在感が薄れてる気がする。
オッさんが子供だった頃に比べて。
それが良いことなのか悪いことなのか分からんけど、俳句の季語がいまいちピンと来ねえ新語で埋め尽くされて「いったいいつのこと詠んでるの?」みたいな反応になる日も近いんじゃないかと思っている。
俳諧をほとんど理解しない人間でもぱっと見で「多分これが季語やろうな」って見当がつくのがこれまでやったけど、そろそろそういう勘が通用しなくなりそうでちょびっとさみしい。
さておき啓蟄だったわけだけども、一日中ずっと雨で、今日
「よっしゃもうええやろ、お日様浴びたろ」
って意気揚々と土から出てきた虫たちは大変ガッカリしてるのではないだろうか?
というか地面にイイ感じに水が浮いてたので、生死の境をさまよってる儚い命も、幾千万にも上ってそう。
・・・人の夢と書いて儚いっていうけど、蟲の命は、人の夢なんぞよりももっとか弱くか細い何かだよなと。
「儚い」よりも淡く、脆く、繊細なものはいくらでもあるのに、それらをすべてまとめて「儚い」と表現してしまえるのも、ひょっとしたら人間の傲慢かもなぁ、などと感じてしまいました。
何の話をしているのか。
24節気の存在感がどんどん薄れていくけど、カレンダーに載ってるうちは忘れずにいたいよね、とそういう話でした。
全ての蟲に幸多からんことを。