分かっている。
分かっているが、分かるわけにはいかんのだ。
JOC竹田会長 退任が避けられない見通し | NHKニュース
- [くたばれオリンピック]
続投とか言ってたくせに、コロコロ変わるなぁ。ホントにやめるまで様子見かな。嫌疑もらって以来、海外の重要な会議に出ない「会長」ってのを後生大事にしてきた連中、免責されると思ってんのかな?
2019/03/15 10:43
断続的に「これがニーチェだ」についてつらつら書いてるけど、いちばん引き付けられたきっかけって多分これなんだよ。
ほかのもっと大事な本論のところをまるっと無視した理解なんだと思うけども、ニーチェが指摘した
「お前らのその美辞麗句、すべて誤魔化しやから」
ってのがピンズド。心の真ん中に突き刺さった。
ホンネとタテマエの使い分けの美しくなさは以前から何度も触れてたけど、なぜ美しくないかは突き詰めて考えたことはなかったと思う。
私利私欲で駆動されているにも拘らず、それを美辞麗句でまぶしているのが汚らしく卑劣である、というくらいの捉え方。
いまもそれはあまり変わらないのだけど。少しだけ考え方が変わった。
これまでは
私利私欲で動くのも悪い。
美辞麗句を口にするのならば、それに沿ったように動くふりくらいはしろ。
という感じだったのだけれども、本当にイラついていたのは
私利私欲で動いているにも拘らず、それを正面から認めようとしない臆病さ
だったと気付かされた。
そういや物語の悪役もそうだな。
「おれは殺したいから殺してます!」みたいなキャラはあんまり嫌悪感湧かないのだった。これは物語の中では最後は打倒される、という予定調和が期待できるから受容出来てるのかもしれないけど、筋が通っている。
「殺しまくってるけど、本当は殺したくなかったんです!」こんなキャラが一番反吐が出る。やりたくないんならすんなよ。
やりたくないこと、疚しいと分かっていながらやるときの言い訳っぷり。
小者だからね。ものすごい良く分かる。しょっちゅうやってる。
やりまくってる。
この仕事何の意味があんの、と思うような仕事やってる時も
「これがゼニになる」と腹に収めれば満面の笑顔をツラに張り付けて仕事できる。
こういう大人死ぬべきだよな、割とマジで。
いかがでしたかブログを書いている俺がその背景を考える【追記あり】
生活のリアルの前に人間の矜持が屈する。資本主義のもっとも悪しき側面を見た気がする。自分の書いてる無意味な駄文ブログもこれに比べるとマシだとむしろ勇気づけられる。低みに引っ張る引力スゲーなネット。
2019/03/16 11:11
これとかもそう。
やりたくないけど、それしないといけないからやってる。
その疚しさを正面から受け止めてない。
「デモデモダッテ、これしないとオマンマ食い上げだし、やっても仕方ないよね?」
その通り。
まったくもってその通り。
この増田と自分との間にはほとんど差はない。
世間一般の視点を借りた時には俺の仕事が増田がやってるものほど社会の邪魔、と見做されてることはないと思うが、それでもやってる本人の仕事に取り組む姿勢としてはもう瓜二つと言っていいほどソックリ。
だからこそ腹が立つ。
増田がクソなんじゃない、自分自身がクソなのだと思い知らされるので。
疚しいことであるにもかかわらず、それが「世間的には赦される」から甘ったれてるのだ。増田も、俺も。
その疚しさを上回る価値観として、地べた這いずる下っ端労働者の「生活感覚」という奴が機能すると知っているから。
「生きることが正しい」みたいな、反論の難しい当たり前の感覚を基準にすれば、
「生きるためには多少の疚しいことに手を染めるのはしゃーない。それが人生」
みたいに免罪される、免罪されることを知っている。これがもうムナクソ悪い。
ムナクソ悪いにもかかわらず、自分が自殺もせず発狂もせずにいられるのはそれが小者のヌルさ弱さ力への意思の薄弱さだと思わずにいられない。
それでも、腹立たしいのはまったく薄まることはない。
そこで冒頭に戻る。
オリンピックという美辞麗句。
しょせんは私利私欲に従って強行されるもの。
その薄汚さを糊塗するための「愛國」「感動」
それを掲げれば周りが黙ると思ってる傲慢と卑屈。
冷笑を気取るクズは
「どのオリンピックもそうだったよ」と腐った誘致を事後追認しあまつさえ
「どこもやってるよ? 知ってたでしょ? 何で今さら騒ぐの?」
とうそぶく。
マジで死ねよ。
俺もお前らと同じ私利私欲にしか目のないクズだから言ってやる。
私利私欲で動くことが悪いんじゃない。
私利私欲で動く自分のありさまを貫くことができないのがクズなんだ。
今まで誤解していた。
私利私欲で動きつつ、それでも美辞麗句として掲げた理念を遵守すれば、その薄汚さは免罪されると思っていた。
けど違うんだ。
私利私欲で動くことを全力で肯定しなくてはいけない。
そのように動くことを「カネと名声」が欲しくてやってることを全力で肯定し、どのような障害が立ちはだかろうと、そこを目指すことを諦めない強さを持たなくてはいけない。
オリンピックを開催するのは、カネと名声が欲しいからだ、という欲望する自分を認めなくてはいけない。
理念は邪魔なだけ。本気でそれを信じている奴だけが、そいつらで指向すればいい種類の力だ。
その力を指向していないにもかかわらず、指向しているかのようにごまかすその有様はすでに、弱さ惨めさの発露でしかない。
冒頭の記事、そしてブコメ。
まず私利私欲に従って動いていたことを認めずに来た。
美辞麗句に沿った活動を示すことができずに来た。
綻びが限界に達したところで私利私欲であったことを居直り
「他の連中もやってるじゃん」と冷笑する。
どこまでクソだよ。
ごまかし切れなくなって本性暴露のあげく開き直りとか、みっともなさすぎるだろ。
このみっともなさは自分で自分の志向する力が「本当は何であるのか」を、誤魔化し認めなかったことに起因するのだと思う。
ゼニカネ名声が求めるものなら、そのまままっすぐ認めていればよかった。
社会がどう思おうと、それを指向する、欲望するというのは止めるべきではない。止めてはならない。(たぶん、ニーチェ的に)
自分が何ゆえにそれを欲望するのか。
世間にとってそれが疚しいものであるにもかかわらず、それでも欲望する自分を認められるか。
つねに「いい子ちゃんのフリ」をするために世の中気にしながらビクビクしてる自分は、何かを欲望したときにすぐに「世間のモノサシ」でYES/NOを判定しようとする。
このクソみたいで惨めなしぐさが染みついてしまっていることが、いやこれこそがオリンピック周りの色んな騒動に対する嫌悪感の正体なのだと思う。
世間のモノサシに合致するように自分の欲望をごまかして進め、露呈して開き直る。
その振舞いの大小に差はあれ、完全に自分との同属嫌悪だ。みっともない。
連中の薄汚さは、そのまま自分の薄汚さへと跳ね返る。
この薄汚さを「しょうがないじゃん」と居直るようなみっともなさの上塗りだけはしたくない。しょうがないのはその心の弱さだ。
薄汚さを薄汚さと認め、その上でそれを克服したいと願う。
その気構えだけは捨てたくない。