ピエール瀧の話。
いやピエール瀧は割とどうでもいい。
どうでもよくはないか。
ただ話の枕というか、それはそも問題ではないというか
そっから連想した
「それじゃあれはどうなるにゃろうな?」
みたいな自分の疑問の方がずっとデカい。
こういう風に消費されるから芸能人って大変だよなと思うがそれはそういう風に消費する俺が悪いのであって、彼の人の問題ではない。
しかしまあ気になったんだからしょうがないよね。有名税だと思ってあきらめてほしい。
主に気になったのは二つ。
素面ってどういう状態なの、ということ。
ココがまとまってて付け足すことない。
付け足すことないけど余計なことを考える。
いったん
「こいつ素面じゃねーぞ、薬注やぞ!」
って認定された後、しばらく仕舞っちゃうじゃないですか。いろいろ。
んで。
いろいろ仕舞っちゃったブツをその後
「これはOK/これはNG」
って仕分ける基準はどの辺にあるんだろうなぁ、と。
素面の基準もたいがい曖昧だと思うんだけど、復帰OK/NGの基準もそうとう曖昧じゃないです? ほとぼりが冷めた頃に復帰、なのかもしれないが、そのほとぼりってどこらへんで冷めてれば一般公開にまでもって言ってOKってなるのよ、と。
俺の中では「そろそろええんちゃう?」のと「それはまだあかんやろ」との境界がすげえズレてて困惑することしきり。
楠神な。
誰とは言わんけどバンコランな。
いや、かまわないよ。収監とかされなかったわけだし。
また続けられるのは良いことだと思うの。基本的に。
けどなんかもやっとするんだよ。ちょっと早すぎないかな、って。
これはもう個人の感覚で色眼鏡でしかないのだから言っても詮無いのだけど、では逆に「OKなんやで」っていう確固たる基準もあるのかよ、と。
スゴイ微妙な気分になる。
普通や素面の基準と自分との間にずれがあるとき、皆どうやって処理してるんだろう。
俺はだいたいの時には長いものに巻かれるか、って感情を動かさないようにするけど、時々「いや俺の感覚の方が正しいやろ」って拘ってしまう。
こういう時に引っかかってしまうので、この引っ掛かりを消化する方法があるのならば知りたいところである。やっぱ、時間に任せるしかないのだろうか。
そんな疑問が一つ。
もう一つがこれ読んでて思ったこと。
ストレスからクスリに手を出したんじゃよ、みたいな分かりやすいストーリーに回収するのはダメっぽいというのは何となく、分かる。
ただやってみただけ
やってみたらハマっちゃっただけ
発端はそんな軽いノリだったけど、後から発生した影響のデカさにビビって
「ダメだと分かってたけどそれを乗り越えてしまったのです」みたいな重い動機で手を出してしまった、そんなストーリーを自分の中で作っちゃってた、そんなのはありそう。
自分がついうっかり適当なノリで人生の決断をあちこちでやってきたからそう思うだけかもしれんが。
後から詰められて嘘ストーリーで言い訳しながら
「ノリで断ったとか言えない」
みたいなこと、割とある。
これで思ったんだけど、最初の疑問とも繋がるんだけど
「ラリって創作したぜ」ってのも、けっこう嘘ストーリーだったりするんじゃないのかな、と。
なんかそういう定型があるって信じ込み過ぎてるところあるんじゃないかなって。
クスリでもって発想を跳躍したぜ、発想の源を狂わせたぜ、みたいな話になると
「あはん、さもありなん」
ってストンと腑に落ちてしまうところあるじゃない、普通の人。
ん。人のせいにしちゃいかんな、俺がそう腑に落ちてしまうのだ。
「ああ、なるほど、たしかにアレは常人には思いつかない発想であるな」
と。
これ、ホントにそうなんだろうか?
ヤクった本人がそう自白したとして、そのヤってた期間がばっちり合致するとして
「見よ、この創作はほぼドーピングのおかげです!」
などと判定しうるもんなんだろうか?
ヤクったことないからわかんないし、なんとも言えないんだけど。
ヤクったことに対する烙印が強すぎて、ホントはクスリの抜けた状態で作ったけど
「これクスリ抜けてたっつってもどうせ信じてもらえねーんだろうな」
って諦めて、常人の受け容れやすい自白して、それが常識化してるところあるんじゃないのかなあ、と。
はっきりと素面の時の創作と、ドーピング状態の創作って分けられるもんなんですかね?
けっこうその境界は疑わしくて、「ドーピングして創作の壁を乗り越えたぜ」っていうストーリーのほうがウケがいいから、さもそれが当たり前のように流通してるだけなんじゃないかな、と。
そんな風に感じました。
ほんとピエール瀧どうでもよかったね。
トバッチリやん。すまんピエール。