ホンネを隠したまま。
すごく難しいよね。
大津の事故が契機なのか、マスコミの社員だとする匿名アカウントで遺族取材をやめるべきだと述べたツイートがバズっていたが、新聞記者として10年以上働く身として強い違和感を感じる。そもそも保育園は「遺族」ではないし、遺族取材を辞めるべきだなどと言うのは安易で雑すぎる言葉だ。続く
— 佐野格 (@tadashi0712mai1) May 11, 2019
この人そのものの署名記事・スタンスというものは知らない。
だからこれから書くことはすべて偏見だ。
その偏見を持っている、ということを忘れずにいるために、
なぜそのような偏見を持つかを整理するための備忘録である。
こういう「伝えること」の大事さ、
伝える側の当事者から何か起こるたびに常に喧伝されるのだけど。
ほんとうに胡散臭いと思う。
これは先入観であり偏見なんだけども
「伝える器」の方がずっと大事でしょう? ってなる。
TVなら撮れ高が正義。
新聞ならどんだけ紙面を埋められるか、が正義。
違いますか?
そこをまったく無視して「伝えたいこと」だけにフォーカスしていると胸を張れますか?
別に本音とタテマエは乖離していてもいい。
ただ。
乖離が烈しすぎるとつらい。
美辞麗句をいっぱい並べ立ててるけど、けっきょく数字に追い回されてるだけだと思う。
そも、「伝えたいこと」の取捨選択にかける時間短すぎるよね、と。
撮れ高、埋め草、その辺まるっと無視してそれでも「伝えいこと」だったのか、どうか。
その部分をすごく疑ってる。
多くの場合、そこをはぐらかしてると思う。
誰にも反論できない原則論で煙に巻いてる。
その姿勢が、すごく厭なのだ。
顧みると、自分だって似たようなことしてるな、と思うだけに。
偉いこと言って耳に痛い言葉を遮るような真似、したくないけどしちゃう。
他人のそういう心根の透けて見えるような振舞いを見ると過敏に反応してしまうのも、自分のそういう後ろめたさの裏返しなんだろうな。
もうすこし、心穏やかに生きたいものである。