身に染みて感じるのは、何か「良いこと」「良かったこと」を書き残しておこうか、と思うとき。思えば子供のころから苦手だった。
作文なんかで「嬉しかったこと」やら「頑張ったこと」やらを課題に出されるとほんとうにしんどかった。書き上げた後に「ウソやんこれ」ってなった覚えしかない。
まあウソしか書いてなかったもんね。
ポジチブな作文は例文がたくさんあるのでそれをパクッちまえばだいたいどうにかなってたのが不味いのだと思う。
その頃の積み重ねか、何か良いこと、喜ばしいことがあったりするときに記録を残そうとすると、言葉のチョイスがいちいち大げさな感じになってしまう。
そうやって言葉にしてしまうと「大げさだなぁ」って自分で醒めてしまって喜びもが地で半減するので、良いことについてはなるべく書き残したくない気分のほうが強い。
下手に装飾するよりも「無事、姪が生まれた。良き哉」くらいのメモを残しておくくらいに留めておいたほうが、読み返したときに実際の心情を上手く表せてるような気がするし。
他人が読んだ時にはそっけないと思われるのかもしれないが、慶事をどう受け止めたかをきちんと言葉にするのは本当に難しいと思う。
いっぽうで苛立ちや怒りなどは多少荒っぽい言葉のチョイスをして激しい書き方になったとしても「まあ、そう思っている面も自分の内心に無きにしも非ず」って感じで
自分がうっかり選んじゃった言葉の激しさに引っ張られるような感覚がある。
なかなか解せないものである。
慶事に関しては言葉のチョイスが不味ければ醒めるのに
不快感の吐露では言葉のチョイスミスってもええことよ、って受け止めてるってことだからな。
もうすこし誠実な性格なら「そこまで書くこともなかろう」と立ち止まることも出来るのかもしれないが、そういったブレーキが苛立ちを書き残そうとした時にはあまり機能しない。
これでは良きことについてはそっけなく記述するので別にいいやと省略して、
イラついたことについては筆がノリノリになってしまう、非情にイヤンなブログになってしまうではないか。
言葉というのはめんどくさい代物だなあ、感情を思うままに表現する語彙の引き出しを持たないということはなんとも厄介なことだなぁと思った次第。