自分の中でインターネットに接続している時間と、接続していない時間が逆転した時期は曖昧で、たぶん今世紀に入ってからじゃないのかなぁ? という気がしてるのだけどあまり自信はない。
曖昧ではあるけれどもまだ「ネッツに接続せずに過ごしていた時間の方がずっと長かった」時代のことはすぐに思い出せるし、戻ったとしてもまあ何とかなるかなとは思う。
えらい不便になることは間違いないけど。
で、ここまではオッサンだからどうでもいいとしてデジタルネイティブ? とかいう世代の人たちになるとネッツは欠かせないインフラでそれがないのを想像するのは困難だろうなということを・・・すいません脱線します。
ここまで書いてて気になったんだが、この文章ルーよりルーっぽくないか?
カタカナ多すぎ。分かってて書いてるのかよ?
ルーのルー語をワロテる場合じゃないやんけ。書き直します。
・・・ここまでは初老間近い年齢だから年寄りの昔話だしどうでもいいとして、情報通信技術が社会の欠くべからざる基本的な公共財となった時代に生まれ育った人たちにとって、それなしの生活というのを想像するのはいったいどれくらいの困難なのだろうか?
自己に当てはめて考えてみると、生まれたときには既にあったものと考えると自動車やテレビなどがない生活と言うことになるだろうか?
いや、利用している時間の長さを鑑みるとそれらよりも遥かに長い時間を費消しているので、むしろ電気水道瓦斯に近いものなんではないか? とも思う。
オッサンはネッツが「ある」ことの便利さは身に染みて了解しているけれども、それが「無くなると死んでしまう」レベルで切実に繋がってるデジタルネイティブの人たちとの間には認識のズレが出るのも仕方ないのかもしれないなと感じた次第。
大昔の話になるが「ネッツの無い世界」ってのを揶揄するNTTのCMがあった。
ネッツ端末(今みると古臭いCRTの奴だ)でささっと書籍を検索する若い司書にお爺ちゃんが「イソター・・・ネッツ(チッ」て苦々しげに呟くとタイムスリップして
年経た司書(これも嫌がらせに満ちた演出だと思う。今ならNGと違うか?)がクッソ分厚い型録か目録をどすこい! とデスクに広げてちまちまページを繰り出して目的のブツを探し始めるその間、お爺ちゃんが手持ち無沙汰で途方に暮れる・・・
て場面で現代に戻って、若い司書が「どうよ? ネッツ便利ッショ? お前も世話になっとるんやで?」ってドヤ顔する
みたいなCMだったんだが、これ今の人に見せて意味が分かるんだろうかと思った。
意味は分かるだろうけど、前提を教えてなければ理不尽なものにしか見えないんじゃないかと思ったり。
「あって当然」と「あると便利」の間の感覚のズレ、たぶん僕と先行世代の間にも間違いなくあるんだよな。ふだん同じ物を同じように使ってるからその辺のズレはあまり気がつかないだけで。
年とって若い人が当たり前のように使ってる
「便利なもの(当人たちにとっては当たり前のもの)」
を使いこなせない局面が多くなってきて、ようやく自分のこととして少しずつ理解できるようになってきました。便利なのはわかっても、使えて当たり前という切実な感覚がないせいで「別に使えなくていいや困ってないし」って放り出すことがめっちゃ増えてきた。
世代間で話が合わなくて当然ですわ。すまん今までバカにしてたお爺ちゃんたち。
僕もそろそろそっち側に片足突っ込んでます。