だからというわけじゃないけど、盆の暇をもてあまして本を読んでいた。
盆はのんびりしてるようでそうでもなくて、なんだかいつもの休日と違って時間の主導権が自分にない雰囲気。
今年は帰省できなかったので盆のあいだ丸ごと親戚周りのあれこれなどで完全に潰れるということはないけど、帰省しなくてもなんとなくそわそわするもんですね。
こっちから親戚に電話する事もあれば、向こうから近況を尋ねてくる不意打ちもあったり。普段は電話キライで出不精なのでなおさらこの時期の波状攻撃には困る。
そういうときはこういうオムニバスがとてもいい。
![あしたは戦争: 巨匠たちの想像力[戦時体制] (ちくま文庫) あしたは戦争: 巨匠たちの想像力[戦時体制] (ちくま文庫)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51v7kBE1mJL._SL160_.jpg)
あしたは戦争: 巨匠たちの想像力[戦時体制] (ちくま文庫)
- 作者: 日本SF作家クラブ
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2016/01/07
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (4件) を見る
オムニバスって書いたけど、一つのテーマで「書いてください」ってお願いされたわけじゃなくて、各作家の既発表の作品をテーマごとにまとめたみたい。
一番古いのは戦中・・・ではないか、まだ大東亜戦争開戦前だから戦前の江戸川乱歩の「芋虫」ですね。以前読んだときよりもなんか、切なさが強く感じられる。
いろいろグロい感じのアレンジで映像化とか、リメイクとかされてるみたいだけど根っこはすごいやるせない。こっちにもっと陽が当たって欲しいなと感じました。
その次に古いのが海野十三の「地球要塞」
何だか紙芝居みたい。展開が大映ドラマっぽく大雑把でご都合主義だけど躍動感はすごいです。戦前の少年達に人気だったのも納得である。
「浮かぶ飛行島」を読んだ時は、あれは長編だったからかまだ謎解き感があったけどこっちはえらい展開がスピーディ。
あと時代の影響も大きいのかしら、敵が分かりやすく鬼畜米英になってた。作劇上の都合をさらに超えて戯画的な感じ。当時の空気感とかがなんとなく伝わってきて面白い。
「ポンラップ群島の平和」で荒巻義雄も収録されてるので、「紺碧の艦隊」の雰囲気ってここら辺から繋がってるんだろうな、というのも連想して、今ならどう書くだろう、と想像してみたり。
他にも興味深いのはたくさんあった。
手塚治虫の「悪魔の開幕」は「丹波首相を殺す」ってキャラがこっちのが丹波の哲郎じゃないのかよ、ってルックスだったり
星新一の「ああ祖国よ」は実に風刺が効いてるけど今ならコレよりもっと好戦的な反応するんじゃないかな、って思ったり。
山野浩一氏と辻真先氏の分はちょっと短過ぎてなんとも言えない感じだけど、おおむね読んでよかったかな。どれも短いので機会があったら読んでみてください。
個人的には収録作品で双璧は
ですね。
小松左京は安定感がある。
けど今日泊亜蘭は恥ずかしながらこれで初めて知りました。
文章のリズムも気に入ったけど、こういうマトリョーシカみたいな構造の短編ってかなり好みなのです。
「フェッセンデンの宇宙」とか「世界をわが手に」とかね。
今まで知らなかったのがもったいなかった。
しかし戦前の作品と荒巻の牧歌的な分を除けば、どの作品も「核」っていうのが陰に陽に顔を覗かせてて、冷戦時代下では核兵器ってのはとんでもない存在感だったんだな、というのが全編通じての印象です。
でまあ、そこからタイトルに戻るわけですが。
冷戦も終わってだいぶ意識してなかったけども、さいきんはまた北朝鮮のアレコレもあって存在感が増してる核兵器ですけど、これまでも誰が所有しているかは措くとして、別に無くなってたわけじゃなくてずっと存在してたわけですよね。
「冷戦が終わった」という言葉で、ずっとそこにあった/今もあるのに、認識がぼやけてしまっていただけで。
「終戦記念日」って言い方もそういう面あるんじゃないかなと読み終わって連想したんです。
「戦争が終わった」って言葉そのものには「勝ったか負けたか」の意味がくっついてないので
「だれ」と「だれ」が「戦ってた」戦争が終わったんだよ?
ってなるのは、ある意味当たり前の面もあるんじゃないのかなって。
よく「近頃の若いもんはアメリカと戦争した事も知らん」ってプリプリしてらっしゃるおじさんが吾の若い頃に居たけど、「戦争が終わった」っていう曖昧な言葉で逃げておいてその言い分はないだろ、とふいに思いつきました。
「日本はだれと、どの国とと戦い、結果がどうなったのか」という所にまで「終戦」って言葉では届かなくてもしょうがないんじゃないか?
「敗戦」と言うならその前段階としてまず「戦った」ことが想起されるし、その結果としての「敗北」ならば「だれと戦ったのか?」というところにまで意識が向くのが自然だけど「終戦」にはそういうのを想起させるなにかが欠ける気がします。
なんとなく「敗戦」はまだしも能動的だけど、「終戦」は受動的な感じがするんですよね。
その言い換えで「戦争に敗北した」っていう認識がぼやけて、そこからつながって戦った相手がアメリカだったってこと自体も上手く伝えられてないんじゃないかな、と感じました。