めりくり。
あんまりメリクリじゃない界隈にもとりあえず。
色々とガッカリな展開もいっぱいあったけれども、まずは明るいほうだけを見ようじゃないかと思う。
今日だけ。
誰だって声を上げていい、みたいな気運がちょびっとだけ出てきたのはよいことだと思う。
いかなる人であれ、扱われ方に不服申し立てする権利を奪われてはならないのだ。
その辺で少しは繋がれるのかな、っていう雰囲気を感じられたのはよいと思う。
被害の軽重を独自に考量して「軽い方は黙れ」ってなムーヴメントも起こったけど、あちこちから反撃を受けてたのはなんかとても意外だった。
「黙れ」と言っていた人間たちの迂闊さとかアタマの残念さとかが窺い知れつつ、「童貞悪ないよ」ってたぶん善意から擁護しつつその擁護のロジックがふんわりちょっとマッチョ風味な感じなのも散見されつつの展開だったけども。
おおむね、
「もちろん岸某は断罪されねばならない」
「それとは別として童貞弄りも戒めねばならない」
ってところに落ち着いてくれるのかな、と希望的観測をしてみる。
一連の騒動の中でカウンター的に持ち出された「童貞(と揶揄される弱者男性たち)が主体になってると思われる性器呼びとかはセーフなのかよ?」って論法も「ダメに決まってんだろ」というのが多数を占めたのも良かったんではないか。
あと考えさせられたこと。
その後もネッツで日々飛び交う卑猥な言葉の応酬について
「童貞呼び・性器呼びを禁止抑圧するって言論統制だね」
「落語とか下ネタどうなるんだろ」
って話題もちょくちょく見かけたけど、この反論が一番みっともないと思ったな。
今回の騒動に通底する最大のガンは
「加害者側が被害者側の不服申し立てを抑圧する力関係・構造そのもの」じゃないの。
無邪気な弄り(そんなもんがあるとは思えないが)の
「童貞呼び・性器呼びによる弄り」
があったと仮定して、そのようにして弄られている側の不服申し立てを聞く耳があるかどうかこそが肝心だと思うの。
「厭だ」と言われたら止めるのなら、それはそれでいい。
「厭だ」と言われても「えっこれ言論の自由ですよ」って振りかざす振舞いがとても気持ち悪いの。相手の言い分聞いてないでしょ、これがハラスメントになる。
「言葉」そのものじゃなくて、「言葉を遣り取りする関係性」を問題にしているんだよ、って言っても、何度でも「言葉の問題」に摩り替えてくるのでゲンナリする。
こういうのを「会話が成り立たない」っていうんだろうな。
ある言葉があって、それを聞いて想起するイメージは各人各様に重なりながらもズレていることが当たり前、だからお互いに話をしてイメージを擦り合わせながら前に進むものなのに、
「この言葉は俺の解釈が絶対だし俺のイメージこそ絶対正義」
「この言葉に関してお前の受け止め方はすごくどうでもいい」
って押し付けてくるこの感じが実にハラスメントでストレスフル。
それでもなおそういうネタをやりたいんなら、それこそ吉田豪が書いてたとおり、とっても技術がいると思う。相手(落語なら客か)のネガティブな反応を押さえつけるんじゃなしに、言葉を重ねつつ、相手の認識を自分の側に寄せていって、最終的にその下ネタを受容させるの。すごい技術だよね。
「この言葉はこういう意味、性器呼びに否定的なニュアンスはない。俺がこう思うんだから、お前もこう思え」ってな押し付ける構えとはもうぜんぜん別物。
相手の拒否・拒絶をも織り込んだうえで展開される芸と、性器呼びを受忍することを強要するセクハラとを同一視できるそのまなざしが謎である。
それから、ヨッピーの一連の記事とか見て思ったのは
自分のポジションを理論武装してしまうのは危ないな、ということ と
ポジションを露にして自分の贔屓であることを自覚的になった人はあまり責められないな(吾の中で)、ということ。
最初の記事は
より多数の賛同が得たいがために、それらしく説得力のあるような風味の語り(吾もしょっちゅう試みては失敗している)をして、それが稚拙だったり、傲慢だったりしてより大きな反発を生むものだなぁ、と感じたし
次の記事は
細かいところは引っかからなくもないが、「例の人の側で、例の人を助けたい」って素直に表明してたのは良かったと思う。
どうも吾の中で、客観的で冷静な見方のできるオレサマみたいなオーラを演出しつつ偏った持論(吾視点から見たときに)で一方を擁護する、みたいなやり方がすごくお気に召さないんだ、ということを発見させてもらった。
ヨッピーはそこで「オレはこっち側だぜ」ってきちんと表明したので「じゃあしょうがないよな、肩入れしても」って納得してしまった。
そのついでに、吾が弄られてきた不特定多数の童貞側に肩入れするのも、こっちの方が、例の人よりもずっと自分に近いからだってのを再発見。
んで、そうであっても、例の人の覚醒を期待していたのも
クソみたいな教室で虐め虐められの無間地獄が続いてた時、「虐める側」に回ったときに虐める(抑圧する加害者)側のメンタルに自分を同化させてたことを思い起こし、肩入れしていたんだと自覚できた。
もっとも、例の人はどうやら「そういう環境に放り込まれた結果染まった」よりも前から「そういう素養を持っていた」という過去の実績を色々見知った結果、「悪い村・仲間から離れればきっと立ち直れるはず」って見ていた自分の贔屓が過ぎることを思い知らされたわけだけど。
毎度毎度のことだが、今回もまたぜんぜん客観的な見方が出来ずに自分の偏ったレンズでいっぱい歪んだ世界を見ていたんだな、ということを思い知ったね。
出来れば客観的になりたいものだが、それが出来なかったとしても、自分の肩入れ具合をキッチリ自覚して「わがままだと分かってるけどこっちを応援してほしい」みたいな振る舞いができるようになりたいと感じました。
穴だらけの雑過ぎる理論武装したつもりになって対立してる相手をぶん殴るより、ずっと気持ちがいい構えだと思うしね。
せっかくのクリスマスだし
みんな殴り合うのではなく、相手の立場もちょびっと考えて振る舞えるような世界になーれ。
と祈っておきます。