前回のインセル記事の時も思ったけど。
カップリング文化を社会全体が内面化しすぎやろ。
マジョリティの価値観で見たときの「勝ち」を得られない不満がインセルの犯罪になったり、過剰に「勝ち」を意識して女性をモノとして粗略に扱うピックアップアーティストになったり、表出の形に差があるにせよ、インセルもピックアップアーティストも、アメリカンなヌルっとしたイズムに囚われてるってのでは、どちらも大差ないみたい。
一方でミグダウは社会・女性から断絶する方向を選んだ、という意味で
マジョリティの価値観そのものを否定する方向のよう。
こっちのほうが「サイレントテロ」なんだってさ。
うーん。
多様性多様性っていうけど・・・なんだろう?
けっきょくLGBTも究極的には「カップル」って根っこの価値観ではマジョリティとはカチ合わないから容認されつつあるのかなぁ、と不意に思いました。
一方で
「いや、モテとかもういいッス」(生え抜きのミグダウの人)
「もうこりごりです」(離婚してミグダウになった人)
みたいに、マジョリティの生来の価値観だと固く信じてる生き方を拒絶して、ぼっちもいいよね、ってする人が、得体の知れないモンスターのように、恐怖とともに語られるあたりに、よく欧米では優れてて日本では遅れてる・・・みたいに持ち上げられてる
「異文化への受容性」「異なる価値観を受容する」
って、欧米でも実はさほどでもないんじゃないか、という疑いをもった次第。
※非モテ(あえてこう括る)を文化と評していいのかどうかは分からんが。
自分にはよく分からん価値観を持ってる人や集団を理解できないのはしゃーないけどさ、それにレッテル貼って安心する、奴らはワルモノだぞ、って十把一絡げにしちゃうのは、レイシズムやゼノフォビアとあんましかわらんのと違うか?
社会問題として分析してるつもりになってる学者先生たちの人が、ずっぷりマジョリティの価値観に嵌り込んでて、そこから自分たちとは異なる価値観の人たちを異端視して分析してるのが、すごく危うい感じがする。
本邦にもやたらと雑な偏見はなくはないけどさ。
多様性の先進国を自認してるようなお国で、非モテ=犯罪者予備軍とガッツリ結んでしまうような言説がさも当たり前のように流通している、というのはなんだかファンタジー。現実感がない。
良くわからんのなら
まず相手の言うことをとりあえず聞いてみるところからはじめるといいのに。
端っから「オメーらみたいなのはありえない」って構えで弄ったり言及したりするのはたぶんフェアじゃないと思いますし、正しい理解にも辿り着けないと思いますぞ。
あとどうでもいいこと。
ブコメでものすごく久しぶりにダンゴムシのアレ思い出したんだけど。
日陰の湿った石を引っぺがしてダンゴムシ(非モテ)弄んでるだけの本邦はまだ、いろいろヌルいんだなぁって感じました(その遊びもいいかげん悪趣味やろ・・・って扱いになってるような気もするし)。
カップリング文化があまりにも強すぎて、それに抵抗することをミグダウが諦めてしまっているアメリカと比べると、放っておいてほしい人、ぼっちの人には触れない雰囲気のある本邦のほうが、ある意味「異質な者との付き合い方」弁えてるのかもしれない。