アチョーと遠ちゃんはいい。
ケイトやエマじゃものたりない。
正月はダラダラ「なろう」とか読んでた。ダラダラ。
上が一番気に入った奴。
山月記はなぜこうも人をとらえて離さないのだろうなぁ。虎だけに。
他にも年始のダラダラをすごすのに適当な娯楽はいくつもあるようで。
ね。
ブコメもしたけど、こういった記事が「今年はブログ頑張ろう」ってなった動機づけの一因なのよな。
混ざってる。
ディティールを抽出すれば、一つ一つは「そういうのあるよね」って人が一定数居ると思うんすよ。個別具体的な話として。
けどそれまとめて「ある地方」「ある属性」の問題として練り上げるのは如何なものか。
こういうモヤっとしたのを感じるので、自分できちんと書いておかなきゃ、って思った次第。無意識下に、似たような話を何度も何度も読んでるうちに、ある特定の集団・属性に関してはこういう風に動くのが普通、っていうバイアスが出来上がる。
「大阪人は阪神ファン。ヒョウ柄ジャンパーのポッケにはいつも飴ちゃん」
「広島人は小2の頃からカープファン」
こんくらいの勝手な印象論ならまだ害がないかもしれないけど、それでも現大阪人で今も近鉄バッファローズ大好きマンとか、広島人でも野球ガン無視JTサンダーズ命マンとか、そういう人が聞いたら「またかよ、ウザ」みたいなことは感じると思うのです。
「九州出身でしょ、お酒つよいんじゃないの?」
ここまでくると害悪ね。マジで。
呑めねえっつってんだろ。
…ちょっと私怨が入りました。閑話休題。
こういうざっくりとした大雑把な理解って、リアルのコミュの時だとあんま良い方向には転ばないな、って。
上記の記事なんかは、ネッツでだから羽目外してるってのもあるかもしれないけど、ネッツのネタがリアルに漏れるって稀によくある話なので警戒したほうがいいんではないか。
で、警戒するうえで一番効果的なのは自分の場合、こういう機微なネタは徹底して
「具体的な誰かの行動・言動」に限定していくのがいいよな、と考えてる。
あんま出来てないけど、これから精進するということで。
あくまで個人的な経験から感じることなのだが、偏見が生まれるのってまるきりの無からではなくて、何かしらのほんの些細な不愉快なこと、引っかかったこと、が種になってると思う。
記憶の中でそういう「相手のツラも忘れちまったが、引っかかる何かがあったな」ってのが隅っこに残ってて、そこに「引っかかったな何か」に似たような、掠ってるようなニュースが流れてくるとアンテナが拾い上げる。
んで
「ふむ。(ツラも忘れちまったが)ヤツのあの行動はこうした集団(属性・階層)ゆえであったか」
って勝手に得心する・・・という行動を何回か繰り返すうちに偏見が固まってしまう、ってのが自分のパターン。
ほんとダメですね。あまりにも影響されやすすぎる。
「最初に引っかかった何か」が、ある特定の条件(集団・属性・階層)に由来するものだった、っていうエビデンスは微塵もないのに、あたかも「そうした集団なりの傾向を例証する根拠」であるかのようにアタマのなかで置き換えてしまう。本末転倒。
A(ある個人)の行為に引っかかる
↓
Aの属する集団に関するネガティブ情報をゲットする
↓
Aを含む集団はワルである、なぜならAがワルだったという事実が立証されてる
みたいな確固たる偏見が脳内に聳え立ってしまう。
A以外の「その集団に属する人」のことなど微塵も知らないのに。
ホモサピの性癖としてしょうがないって思わなくもないけどさ、やっぱさすがに短絡的過ぎると思う。今までもアタマのなかで「短絡してはいけない、個人と集団は別である」って言い聞かせるようなことはやってたけれども、もっと徹底していきたい。
何度かブログでもこういうの書いてきたと思うけど、何度気合を入れても弛んでくるので。
常に個人と集団(や階層)を切り分けて考えることが出来るほどのアタマと心の余裕はないし、大雑把に捉えてることだらけだけども、せめて自覚できる分には偏見を抑制し、己に自覚を促す機会を増やしていきたい。
今年はその辺を意識しながら過ごしたいと考えています。