afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

これがニーチェだ。 その3

ダラダラ続ける。意識引っ張られてるなあと思う。

自分はとても影響されやすい人間である。

人として軸がぶれている

こうして書き残しておけば、後世の俺が「この辺でズレたんだな」と分かるので有用。俺だけに。

とはいえまだ本書の32pである。

この先もっと込み入って意味が分からない話があるのに大丈夫か。

事前に思っていたよりもずっと続けることになりそうなので、毎日書くのは諦めて気が向いたときに少しずつまとめていくことにする。

 

道徳を否定する道徳

このくだりがどうもよく話かからない。

道徳を否定する立場は、二種類ある。

・「人々が自認する道徳的動機が実際にその人々をその行為に駆り立てたことを否定する」

・「道徳的判断が真理に基づいているということを否定する」

で、ニーチェがとるのは後者の立場。

なんだけど、前者の立場の場合とも読める、と本書では紹介している。

 

それで、この前者の立場、というのが良く分からない。

いったんは

「オマエは「良いことをしたい」と思って「良いこと」をしたと思っているな? それはウソだ!!」

って意味だと解したのだが、その後に現れた例示で混乱する。

真に道徳的な人間は、他人が道徳的であることを必要としない。

「他人が道徳的であるということ」を称揚することは本人の自認に反し

不道徳性に駆り立てられている――、ということらしい。

これ、自分としては分かったつもりなのだが、上手く説明できない。

例示されたニーチェの原文から読み取れたのは

他人が「私利私欲から離れた」行為をする。≒自己の利益に繋がる。

という構図がまずある。

たとえば、篤志家の拠金で公共施設の充実(図書館に膨大な蔵書の寄贈)なんかがあって、それで利益を得た(読める本が増えた)俺がニコニコ! ってな話。

 

であるとして、ニーチェの場合

この篤志家の拠金のような、「私利私欲から離れて」した行為が、その行為をなした人の「力の毀損や損傷」を否定しなければならない、という。

篤志家の拠金によって利益を享受する自分がいる。

しかしその時、篤志家の自己の財産は減ってる。

だから、ホントに自分が「私利私欲を離れる」のなら、篤志家の懐が痛む、という点に着目し「それはいけない事である(善ではない)」と拒絶しなくてはいけない、と。

 

ここまではある程度、ついていけた気がする。次の段落だ。

(前略)――これによって、今日おおいに尊重されているあの道徳の根本矛盾が露呈する。この道徳の動機はその原理に反している(「知識」二一

 

ここに何か飛躍がある気がする。

ちがうか。例示されているモノが足りない気がするのだ。

例として示されているのは

彼の力の毀損・損傷によって、自己が利益を得られる、それを称揚するのがNG

という話なんだけど、例えばこれが

篤志家の拠金で公共施設が充実した→自分も利益を得た

篤志家さんありがとう、篤志家さんは道徳的にスゴイです」

で終わってれば、

「お前は、自分が、道徳的に優れてる「良いことをしたい」と思って、褒めた「良いことをした」かもしれないけど、じっさいは自己利益だけ掠め盗ってる不道徳適性の塊やでそれはウソだ!!

という指摘も、わかる。

では、

篤志家さんありがとう、俺も少ないなりに拠金して公の福祉に協力する」

という行為に出たらどうか?

篤志家の力の毀損・損傷と同時に、自分もまた力を毀損・損傷しているので、(額の多寡はあれ)行為としてそれは「私利私欲を離れて」いる点で等価であるように思われるのだ。

んで、その行為そのもの、の動機は「道徳的なもの」だろうと推察できる。

これは「良いことをしたいという動機で、良いことをした」とはならないのか?

こういう場合でも、

「人々が自認する道徳的動機が実際にその人々をその行為に駆り立てたことを否定する」

という形での批判は成立するんだろうか?

 

 ニーチェというか、この本で語りたいだろう著者の意図を思いっきり外れて些末なところを気にしている。だが、気になってしまったモンはしょうがない。

他者の力の毀損・損傷をいとわない行為(ニーチェ的にはNG行為)に触発されて、自らもまた、力の損傷を伴う行為に手を染めた場合、それは「不道徳性」だと言い切れるのだろうか?

それとも、

真に道徳的である人は

「他者の力の毀損・損傷する行為」は否定しつつ、

(なぜならそれは「その人のため」にはならない)

自らは「私利私欲を離れて」、己の力を毀損すると分かっていても他者の利益になるような振舞いをするはず・・・ということなんだろうか?

「真に道徳的な人は、他者の道徳性を問わない」というのはそういうことを含んでいるのかしらん? 

たぶん、本書ではそういう意味(真に道徳的な人は、自分の自己犠牲はあっても、他者の自己犠牲は止めるだろう)を含んでいるんだろうとは思うのだけど、このモヤモヤの答えは先の方を読んでもまだいまいち納得しきれてない。

軽く扱ってるけど、

「他人の自己犠牲を褒めるけど、自分の手は汚さず褒めるだけのクズ」

と、

「他人の自己犠牲を褒め称揚したうえで、自らの自己犠牲をも厭わない人」

との間には、真に道徳的な人ではないにせよ、道徳性に濃淡があるんではないかと思うの。

ニーチェの関心が「道徳性そのものクソッタレ」っぽいので、道徳性の枠の中でその優劣に拘ってる自分のモノの考え方がズレてるのだとは思うが、引っかかっているのは事実なのでここにメモっておく。

 

・・・色々と先入観を棚上げにして、ひとまず呑み込むつもりで読まないとしんどいなこれ。