といいつつ全力で引っかかる。
シンプルにオススメの本教えて(ただし自身の立場から)
ここ3年くらいで、読み難さを別にすれば「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」。 共感力マジクソ、というここ最近の自分のベースを作ってくれた本で、「モンスターマザー」と双璧。
2019/03/20 04:54
なぜブコメだけで収めないのか。
FlowerLounge 増田が書いてる(ただし書き方は微妙)ように「◯◯の立場から△△を薦める。理由は□□」というブコメが集まるのなら興味深かったけど、自分の好きな本をなんの補足もなしに書名だけ紹介してるのがほとんどで残念
それもそうだな、と思ったので。
けど100字じゃ足りないよね、と思ったので。
というわけで反省したブクマカの皆はブログで紹介しようね。
元増田も書いている。
俺はどんな思想や立場のものでも、そういう情熱の盛り上げるパワーをもった作品が読みたいのだ。
俺は酒は飲めないので、ここで存分に語ろうと思う。
思想なんてものはもってない。だいたい気分だ。
上下関係において自分が上のポジションに立てば下の不平不満にイラつくクズになるし、下のポジションに立てば、上の不合理で理不尽な振る舞いにイラつき愚痴るクズになる。
ただ。
ポジションによって人の考え方、もとい俺の考え方なんざコロッコロ変わるんだからさきざき禍根を残しそうなデカイ口は叩かない方がいいよな、と思っている。
そんな風に考えるに至ったのが、ブコメで挙げた2冊

モンスターマザー:長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い
- 作者: 福田ますみ
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/02/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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特に前者。
人間予断あって当たり前。
当たり前だけどその予断を疑うことを止めたその時から人は転落していく。
そもそも予断を疑うことをしないのならどうなる?
ってのをスゲえ分かり難い文章で書いてる。
分かり難いのは、予断の発生する物語性の危うさを回避するためではあるけど、それだけに自分がふだん予断でもって世の中を見ているのかというのを思い知らせてくれる。
時系列に沿ってまとめるだけでも、そこに予断、何らかの因果を見出そうとする心の働きは生まれるからね。たいへんに厄介。
んで、後者。
その予断を「正義」としてのっかることのヤバさ。ひたすら滲み出てる。
どっちも救いがないのは、予断を持って動いてる人が、今まさにこの悲劇を生み出した主役として振舞った人が、まず間違いなく優れた人であったという事実。
そうした優れた人の暴走を可能としたのが、共感力。
「彼ほど優秀なら」とその杜撰捜査を再点検しようとする動きがなかった。
「いじめとはこういうもの」という構造への疑問を提議しようとする動きがなかった。
いったん共感力ベースで物語が完成してしまえば、後は状況に沿って流れるだけ。
紅林刑事も、高見澤弁護士も、その馬鹿でかい穴にはまり込んでそれに沿った役を演じただけに見える。
それまでに積み上げてきた実績と信頼から見れば、目眩がするほど雑で幼稚で杜撰な振る舞いすぎて、同一人の振る舞いとして受け入れるのが難しいレベルの豹変をかましてる(特に高見澤弁護士)。
それに抗い、共感ベースの物語、分かりやすさに対峙した側の苦闘と敗北は何ともいえない物悲しさがある。
いったい誰が救われたんだろうな、と。
優秀な人間でも、共感力、マジョリティにとって受け入れやすい物語性に取り込まれればたやすくこうなっちゃうんだね、と。
集団の同調圧、共感ベースの共同体は
「オレはこう思う、オメーもそうだろ?」「うんそうだね」
の連鎖の挙句に「そうに違いない」という物語が凝り固まって間違った方向に暴走する。
それに乗っからない人が稀に居るのが救いといえば救いだけど、それよりもこの
「共感で動く」
という人間の抗いがたい本能の愚かしさには警戒しないといかんと思うし、そう心がけてる。優秀な人間でも簡単に取り込まれて、正常な判断力を一瞬で奪うんだから、いわんや俺のような小物をや。
俺がデカイ口を叩く時は、まず間違いなく
「オマエもそう思うよな?」
となるべくデカイ集団や力の強い奴を引き合いに出したがる。
自説に内心自信がないので
「オマエもそう思うよな?」
と人を引き込み、より多くの同意を集めて責任分散を図ろうとする。
これこそが共感ベースの最悪のあり方だと思う。
少なくとも俺が他人を共感させようと振舞うときはまずこの二つを疑うべき。
上の2冊でその辺の自身の傾向を自覚するに至ったので、以来なるべく「好み」がベースである、というのを表明するようにしている。
「正しさ」をベースにしたら自分の及ばない範囲まで背負ったり、武器にしたりしてしまうからね。「好み」ならまだ自分で引き受けられる。
で、そんな風に考えながら、さいきんニーチェに囚われてるのはなぜか、魅力を感じてるのはなぜか、というのが少し分かった気がする。
ニーチェがマジョリティに牙を剥いたところが気に入ってるんだよね、たぶん。
哲学論としてはかなり雑な部分もあるっぽいのだけど、共感ベースが用いがちな
「自らの拠って立つところのゆるぎなさ」
「説明不要な正義の自明」
をけちょんけちょんに貶しているあたりが、痛快に感じられるのだと思う。
そして、そうしたマジョリティ対抗の書・哲学としてニーチェが取り上げられがちなのが不満なのだと思う。*1
ニーチェをつまみ食いして、その権威によって
「自らの拠って立つところのゆるぎなさ」
を補強していこうとするしぐさは共感ベースと変わらんやん、というね。これは好みではない。
共感の強要、権威のつまみ食い、どっちにしろ、自分の自信のなさ、拠り所のなさを他人を使って補強しようとしてる有様がすごく醜いな、と思うようになったのは、上の二冊が大きい。
以来、どんだけ正しそうなことを言ってる人でも
「けどそれ根っこはきっと、ただのアンタの好き嫌いですよね」
と、だいぶ突き放した見方をするようになった。
この辺は「共感でもって何をしようとしていたか」(他人をどう扱おうとしていたか)という自分自身の振る舞いからそう類推してるだけで、例外は幾つもあることは承知してるけど、ベースとしてこの考え方は定着しつつある。俺の内心で。
しょせん自分は気分次第、合わないものは合わない、共感クソ喰らえというのは、諦めもあるけど解放感もあって、なんかスッキリしたのよね。
自分自身が人に共感することがあまりない、共感力がないことに劣等感を感じざるを得ない、という状況の真っ最中に読んだので
「共感ぶっちゃけヤベえし」
というのは救済だった。自分自身がそれを武器として使いがちであったことを思い知らされて凹みもしたけど、総体としてプラス。
良い方向に動けばそれはそれは素晴らしいパワーなんだけどね、共感と連帯。
その方向が「良い」と判断する確たる基準のない浮世草(つまり俺)が安易に乗っかるのはマジヤベえと思います。
※フィクションは勝手に一方的に共感しても誰も傷つかないので素晴らしいと思う。
*1:思う、思う、ばかりなのはまだ自分の中で整理がついてないからで、これからまた変わるかもしれない。