いや忘れてないけど。
参照として引こうと思ってたエントリとか見つけ出せなくなってた。
こういうことよくある。
探すのめんどくさくなって、別にどうでもいいことしか書くつもりなかったんだしやーめた、ってね。
こういう時堪え性がなくなったなぁ、と思う(主に加齢のせい)。
毎度のようによいと思った記事エントリをブクマせずに放置してあとから忘れるのはどうしたもんかね、って思う(これは生来の怠け癖のせい)。
同じところをグルグル回る人生でした。たぶんこれからも。
でまあ、真面目に書く気が失せたので適当に書いておく。
先日「自己責任言ってきたんだから自己責任全うしろよな」みたいな記事書いたんだが、別にそれがいいと思っているわけではなく。
今になって「国難だから」と連帯を呼び掛けてるあらゆる人々に対してものすごい嫌悪感と胡散臭さと警戒感を拭い切れないんですよ、というようなことを書きたかった。
多分・・・というか自分の中ではわりと確信に近いもんがあるんだけど。
いま
「社会の安定のために拙速でもすべての個人に給付を」みたいな流れになってるの、
もうしばらくしたら落ち着くと思う。
いや、事態は大きく改善するとかは多分ないんだろうけど、人間の側が慣れる。
で、けっきょく「自分こそ大事にされるべき」みたいなのを正義の糖衣で包んだ序列づけがまたぞろ復活してくる。
一月もしたら、「すべての国民に給付を」と騒いでた少なくない人が
「アイツは殺してもいい、俺より価値のない人間」
というのをなんかもっともらしく言い出すと思う。
そんな予感がある。
今の流行り病もまあ・・・それなりに大ごとではあるんだけどさ。
「オレはなぜ他人より大事なのか」をキッチリ自分の言葉で説明せずに
右にせよ、左にせよ、より自分に都合のいい「正論」っぽい奴に依って他人をぶん殴ってきた、それがコミュニケーションにおける強者だと見做してきた時代の病気も、まあまあ抜き難いもんだと思うのよね。
だもんで、俺はこの先の共同体の再興については割と悲観的。
正論でしか戦ったことのない個人の群れ、異なる正論を奉じる相手との対話を拒絶して心地よい村に閉じこもってた個人の群れが、互いを架橋する言葉を喪失した個人の群れが、果たしてまた共同体を作れるものかね、と。
共同体は気に食わない奴の存在をも受け入れることが、すべての成員に求められる。
その「気に食わない奴の存在」を受け容れるだけの器量が、俺も含めて個人から失われてると思う。
自分のほんとの欲望を隠したまま正論で人をぶん殴る心地よさ、自分が否定されないムラの居心地の良さを知ってる分、これからも身の周りのカネ回りが保証されるかぎりにおいて、ムラの利益の確保のために、ムラの外側の人間を犠牲にすることに躊躇のない振る舞いを続けていくんじゃないのかしら?
首都圏と田舎では肌感覚が違うのかもしれない。
ただ、もうしばらくすれば今の「みんなで我慢(その為のみんなに給付を)」という同調圧は薄れていって
「国(社会)を生かすためにはこの属性を殺すことやむなし」
という排除と選別の同調圧力へと転化するのではないかな、というのはかなり確信をもっている。
身近な人、多様な人との共同体は衝突不可避だけど、ふわっとしたイデオロギーで集まれる、よりおっきな国とか社会とかは自分を全肯定してくれるからね。居心地よすぎ。
不快な隣人とも資源を分かち合わねばならない、というリアルを受け容れるよりは、俺と志を同じくする者の取り分を増やすために、不快な隣人を殴っても構わない。
そうやって生きてきたのが、これまでじゃないだろうか。
寛容と多様性とを訴えながら、それを実践できていたやつは果たしてどれほどいたか。
俺はそっちの方がいい、と思いはすれ、それを実践できずにいる己の狭量さに少しばかり気が滅入っている。
みんなで協力、というのは無理だろう、というふうに感じているのも
いまさら宗旨替えした不快な隣人をいろいろ呑み込んで受け入れる器量が俺自身にないからこそ。
これ自体は俺自身の狭量さの問題だけど、それでも。
お互いが、お互いに、不快な隣人を遠ざけることに成功し続けてきた惰性の力を見くびってはいけない、俺はそう思います。