のでブログに書こうと思った。
けど答え出てた。
やっぱりそうなのか。下手な考え休むに似たりなんやな。
凡人のともなればなおさら。
なのでここからは完全蛇足。どうでもいい話。
自民の憲法草案の「「享有する」は永遠不変」ってのも、憲法そのものが「変えられる」ことを前提としてる以上は「変えようと思えば変えられる」ってことだよね、みたいなことをぼんやり考えてた。
で「与えられる」だとなんか変えられない感じがするのはなんでだろ、と思ってたら答えは上記二つ目のエントリで回答が出てた。
けどこの「与える上位者」をより高位のフィクションとして必要とするのも分かりつつも、自分の中では、ただ「与えられた」ということそれ自体がブレーキというか、なんとなく行動を規制するような感じもあるんじゃないか、というふうに思ってる。
うまく言えんけど。
誰から貰ったのか分からんけどとにかく「与えられた」っていうのが「授かりもの」とか「預かりもの」みたいな感じがする。
使わせてもらってるけど、自分の意志で捨てたり壊したり処分したりできない財産みたいな。
誰から与えられたものか、というのはほとんど考えたことなかったし、説明聞くとそういえばそんな話聞いた気がする。
ただ実感としてはそういう「支配者よりも上位の誰か」を擬制して「だから不可侵なんだ」というよりも「誰かからの与りもの(預かりもの)だから下手に扱えない」という感触で捉えてた。
「どっから来たもんかわかんない以上、為政者の好きに弄れるもんでもないけど、だからといって俺が好きに処分できるもんでもない」みたいな。
んん・・・これもなんか神格化に繋がってるな?
堂々巡りになってる気がする。
なんで自分がそう思うのかは謎。他者をこの説明で納得させられるとも思わんし。
でもごくごく個人的な感覚としては「誰か知らん人から預かったもの」ってだけで割と扱いが丁寧になってしまうようなところはある気が・・・する。
我ながら不思議ではある。
他人にも自分の持ってる人権を尊重させようとすると、この説明じゃぜんぜん足りんのは分かるけど、自分が自分の持ってる人権とかの類を取り扱う時の意識としては、「誰が与えてくれたか」はあまり意識せず、「これは自分のものではなくて乗っかってるだけ(だから丁寧に扱わないといけない)」という意識の方が強い気がする。
まったく答えになってないな。
他人にも同じように尊重させるようにするカラクリとして「より上位のものから与えられた(から蔑ろにする権限は誰にもない)」という擬制はめちゃくちゃ有効だし、その通りだとアタマではわかったつもりになってるんだけど、だからといって俺がその「擬制された上位者」をリアルに想像できるかというと難しいし、まだどこか腑に落ちないところがある。
にもかかわらず、この今享有してる*1「人権」に対する構えとしては、どこか遠慮とか慎重さが自分の中にはある。*2
この自分を自制させてる*3鍵がどこにあるのか、と考えると「これは俺が使ってるけど俺のものではない」という意識になると思う。
何でそういうふうに感じるようになったのか・・・たぶんどっかでそういうふうに教えられたから(それで納得したから)だと思うんだけど、どこでそう教わったのかは思い出せないし、この説明でもって他人にも「こういうふうに受け止めて人権扱えよ?」 と迫るのは実に人権の侵害の気がする。
なぜそれで当時の自分が納得したのか、疑問が湧いてきたが検証しようがないので棚上げ。
ひとまず俺はそう思っている、ということで。
しかしアレだな。
書かれてるからこうなんだよ、っていうのは楽だけど、実際なんでそうなってるのか、って根拠を考え始めるとめんどくさいな。
そういう根っこをちゃんと考えて説得力を持たせるのは、やはり賢い人の仕事だと思った次第。
俺ができるのは好みの表明くらい。
好みで言うと今の本邦はまあまあ好きなので、自民党の改憲案には全力で大嫌いだバーカバーカと言わせてほしい。
こういうことを表明してもめんどくさいのに絡まれはせよ、おおっぴらに処罰とかされない世の中だからこそ、俺は好きなのだよ。