内容云々じゃなくて、こういうこと「死者をDISらない」が作法として身についてた最後の時代だろうな、って。
俺は
枝野なり志位なりが安倍が死んだときにこれが出来るか
安倍が志位なり枝野なりが死んだときにこれが出来るか
ってなるとものすごい懐疑的。
上っ面は木で鼻をくくったような
「チッうっせーな、反省してまーす」
みたいなスピーチライターの書いたしょうもない弔文をどちらも読むかもしれないが、相互の支持層は弔文読んだ政治屋の舌の根も乾かないうちに
「でも安倍はクソだったよね」
「でも志位(枝野)はクソだったよね」
ってやりだすだろうよ、って確信がある。
んでそれが「本音クール」と喝采されちゃう未来も見える。
相互に「ここはお互いキッチリしとこうよ」って合意すら捨てたのが2000年からこっち。
どこまで行ったら歩み寄れるのやら。
悪は悪として徹底的に叩きのめすのもそれはそれで。
俺の好みには全然合わないけどね。
好みで言うと、痩せ我慢もいいところの鈴木貫太郎のルーズベルト弔文が好き。
「お悔やみ申し上げます。
ここまで米国が強くなったのもルーズベルトの指導力のたまものだと思う。
けどま、俺たちも精神力では一歩も譲るところはないのでよろしく」
ってやつ。
いくら憎たらしい「敵」相手でも、この程度の見栄は張っておきたいやね。
けど俺は、ネトウヨ・はてウとは正直話が通じない豚どもだな、と思うことも頻繁にあるので、この大人の境地に達するのは難しそう。
ダブスタくず野郎にはなりたくないが、思い返してみれば寛容に乏しく狭量なダブスタくず野郎なムーブしてることが多々あって気が滅入る。
この程度の「言ってることとやってることが違う」小者であることを自覚したうえで、ゆめゆめ増長しないように心がけたい。