処世術って奴。
雑に思ったことを書いていく。
読んで、
読んで、
読んだ。トッド新刊出してたのか。
「俺は密にならなくて済む別荘あるからいいけど、都心から離れられない底辺は大変だよな(大意)」
みたいなことを言ってて「健在やな」って思ったのは半年くらい前か。
んで。
つらつら思うんだけどさ。
学歴とか血筋の良さとか実家の太さとかで変わるものっていっぱいあるけど、
骨身に染みて想像の及ぶ範囲って言うのは人類ちゃんたぶんそこそこ普遍なんじゃないのかな、って。
言い古された奴だけど、学べば学んだだけ世界が広がる、みたいなアレ。
無くはなかろうが、それって「学び」によって達成されたもんなのかな、と疑わしいな、という気持ちの方が強い。
いや、下から見上げる時の視線がステロタイプに凝り固まっているというのはそうだろうねと思う。否定しない。
ただ、上から見た時にも視界から外れてるモノ、想像の埒外ゆえに沈黙が下りるモノっていっぱいあるよな、と。
んで。
学びってのは、こういう想像の埒外にあるモノに接した時の如才ない態度を選びとるツールなんじゃないのかなってふいに思いついたの。
noteの記事、富裕な血筋、実家の太い若い者たちが、本邦中央値により近いポジションの筆者に初めて接触した時のエピソードが語られてるんだけど(けっこうエモいので是非一読をお奨めします)、学べば、あるいは富裕で恵まれた環境内で長じるにつれ「そこでどんな態度をとるのが適切か」ってのを習得できるんじゃないか、と。
別に切実に目の前にいる「想像の埒外のホモサピ」の抱える境遇・苦しさ辛さを理解する必要はなくて、理解しているフリが出来さえすれば、自身のほんらい生きる生態系においての悪評にはつながらない、恵まれた環境内で心地よく泳ぎ抜くことが出来るだろう、と。
想像の埒外のホモサピとエンカウントしたからといって取り乱すのはgentleではない。
想像の埒外のホモサピともelegantなcommunicationを図れてこそgentle、みたいな。
もろちんこれは偏見である。
とはいうものの。
かなりの程度、自分の中では行動・評価基準として確立してるところもある。
自分と距離のある人間の境遇・痛み苦しみに対して想像をめぐらすってのはすさまじい苦痛でやんすよ。教育程度でどうにかなるとはちょっと想像しがたい。*1
高学歴者の多いらしいツイフェミなんか見てみろ、KKOと呼ばわる人たちに対する矛先の鋭さは割とビビるもんがあるぞ。
他にも似たような話はウジャウジャあちこちに。
多くの学びを得ることが他者の立場を獲得しうるという割に
「まあやつにはやつなりの事情があるであろうよ」
という落としどころをさぐる高学歴・高能力者の振舞いは滅多にお目にかかれず、
「奴は敵だ、潰せ!」
式の正義の発露ばかりがクソ悪目立ちするネッツにおいては、人当たりの良さがそのままヒトの善性とは繋がらんよね、みたいな猜疑に満ちた目線を送りたくなる次第。
けっきょく「ヒトの良さ」って、血筋とか教育とかでどうにかなるもんじゃなくて、その人の持つ本性によるところが大で、それゆえに珍奇で、ゆえに貴重なんじゃないかなって思っちゃう。
ぼくの魂はすっかり汚れてしまいました。
「アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ」ゲーム内楽曲『Parade d'amour』MV
世界は思うより広くて美しいハズ。たぶん。
*1:これこそがまさに偏見である。