afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリのはずだったが、今は路頭に迷ってる

年寄りは昔話が多くっていけない。

headlines.yahoo.co.jp

 

むむっ。

昔のことを思い出した。

 

http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1306713483257/simple/common/other/4de47ae2007.pdf

 

美辞麗句が並んでてまあ…だけど、ここの部分はなかなかチャレンジングだったよねって。

つい数年前に2002日韓共催なんとかがあったばっかりだから、その流れもあったのかも知らん、と今は思う。*1

4.新しいオリンピック開催モデルの提案
21世紀は、都市の時代といわれます。つねに新たな時代の価値観を先導して
きたオリンピックは、新しい時代における都市の役割や、持続可能な都市のあ
りかたについて、そのモデルを提示する必要があります。
広島・長崎オリンピックでは、複数の都市が連携し、わが国の持つ最先端技術
を駆使することによって、現有施設の活用を基本とした、最高の競技環境を提
供します。また、瀬戸内海から九州にまたがる穏やかで豊かな自然的・歴史的
環境を生かして、大都市では実現できない文化的な雰囲気を提供します。

 

で。

 

www.asahi.com

 

むむっ?

国際オリンピック委員会(IOC)の結論として、「1都市開催」の原則を定めた五輪憲章を20年五輪に向けて改正するのは不可能だと伝えた。

 

むむむっ?

JOCによると、竹田会長らが今月7~9日、IOC理事会を控えたスイス・ローザンヌで複数のIOC幹部と協議した。JOC側は広島、長崎両市が共同開催の意向を持っていると打診したが、IOC側は「憲章の変更はできない」と明言したという。

 

では現在は?

https://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2017.pdf

・・・コピペできない。

 

59P

第5章 Ⅰ 32 の 2

 

オリンピック競技大会を開催する栄誉と責任は、オリンピック競技大会の開催都市に選定された『一つの都市』に対し、IOCより委ねられる。

 

検索に最初に引っかかった2014版、最新版とも一字一句たりと変わってねえ。2008当時がこれか、というのはちょっと調べきれんかったけど、まあ憲章を盾に広島・長崎共催を突っぱねた以上、条文はこの当時から不変と考えていいんだろうなと思う。

 

さて・・・

おっかしいな?

ツーキョーはいつ何時、委ねられた栄誉と責任をIOCに召し上げられたんだ?

つか1都市開催に拘って都市の連携に門前払い喰らわせたロジックはどこに放り棄てた?

予選の地方開催にも結構手間取って飲ませたんだよ、ってJOCアナウンスしてたよな?

ツーキョーだと危険が危ない?

それは昨日今日、急に分かったことですか?

それでも「7月下旬~8月上旬て、スポーツ最適」と立候補したバカ猛者の集まりがJOCで

それをじっくりねっとり念入りに視察したうえで「やれるぜ」ってお墨付きを与えたのがバッハ以下のバカIOC諸賢じゃないんですか?

それともアレか

「札幌はバカでかい町もしくは村であり、都市ではない」

「なので複数都市の連携による開催という指摘には当たらない」

ってアクロバティックか?

 

詳しい説明が聞いてみたいけど。

聞いたところでボクの感想はきっと変わらないんだろうな、ていう予感がしている。

 

くたばれ、オリンピック。

IOCも、もろちんJOCも、ろくなもんじゃないですよ。

アスリートファースト(笑)。

*1:あっちはがっつりビジネスで、ふわっとした「アマチュアリズム」の上っ面をまだ捨ててない五輪とはまた話が違うんだけども。

それは立て直すべきものか。

まずそこまで戻って考えてみる必要があるんじゃないかな、って。

www.nikkei.com

 

いやまあ問題ではある。

けどこの問題というのは「どこから見た時に問題か」というのをハッキリさせておかなくちゃいけないと思う。

将来世代、いわゆる働けなくなった高齢層を支えるには人口が必要だ、というのがまあタテマエだろう、と。

 

んで。

30代のカップルの産む人数は人口再生産に成功している先進国とそん色ないレベルであると。

キモは20代のカップル成立数がやたらと下がっていることだと。

何でなんだろうな、って思ったんだけど、直感的に思ったのが

小泉・竹中内閣(とそれを序盤においては熱狂的に支持した大人たち)の影響かな、と。

これは完全に思い付きであって、傍証とか微塵もない印象論に過ぎないのだけどそういうのができるのがブログの良いところ。挙証責任? 知るかよここは俺の日記帳。

 

自己責任・努力不足・自業自得、ってフレーズで政府の公共からの撤退縮小路線を政府が明示して、それを大人たちも「いいぞもっとやれ!」ってめちゃくちゃフィーバーしたじゃん?

あれってさ表面的な『政府の撤退』ばかりじゃんくて、もっと広い意味の公共の底を放棄したっていうのもあるんじゃないかな・・・と、今になって思うんすよ。

 

要は「世の中って支え合いだから」っていう建前を、本邦においていちばん影響力のあるパワーが「イヤそんな甘っちょろいことないんすよ」って本音ぶっちゃけて、国民の皆様方も「そうだそうだ」ってなったのね。

そんな大人ちゃんの振舞いを見てた当時の若い子たちにさ、適齢期になったからといって

「世の中を支え合うために、キミは結婚しなくちゃいけないんだよ」

って導くのはまあ・・・無理筋。

 

で。

大人どもがこの無理筋のふわっとした圧力が使えなくなったことが、婚姻率の低迷に繋がってるんじゃないかなって思うの。

実は社会に生きる自分たちが想像していた以上に、自己決定権を与えられた状況で

「結婚しよう」

って方向に動く人間というのが少なかった・・・そういうオチなんじゃないかしらと。

 

良い悪いはここでは措きます。

政府(およびそれを指示した国民)は

「自己責任・努力不足・自業自得」

という形でお互いを切り捨てたともいえるけど、一方でその分自己決定の範囲がおもいきり広がったというのも否定できない。

その自由こそがあれほどの支持を広げた側面もあるんじゃないかな、って思うし。

んで、その自由な意思を尊重する空気(切断の方便にめちゃくちゃ多用されるようになったのはご愛敬、ここでは棚上げ)が完全に優位に立った社会のなかで育ってきた若い世代にとっては、

「結婚・出産」を強要される圧力もそうとう軽減されたのではないかと。

 

 

こういう風に思ってるから、子供が増えない大変だぁ、という論調には正直、あんまりノれません。

今までは社会の圧によって「結婚・出産」を余儀なくされていた消極的な婚姻数が取っ払われた結果として、ひょっとしたらむしろ、自己決定の帰結としてある今の方が健全という可能性もあるんじゃないのか? とすら。

 

business.nikkei.com

 

こういう悪意と偏見に満ちた分析記事も出ちゃうくらいだしね。

異性を求めつつ、異性の欠陥ばかりをあげつらう分断の昂進もまた、「今」らしいっちゃらしいけどさ。

そりゃ、圧がないと想像以上に婚姻とかカップルにならない人って多いんだなぁ、と感慨深いものはあるけど、それが≒悪い、っていうのが自明であるかのように語る、さらにそれが「悪」と仮定したうえで当事者双方ではなく、片側の有責性に偏りを見出すようなこの記事にはすごい違和感がある。

 

自分が他人に「結婚しろ」と強要するだけの資格を有しているのか、どうか。

自分が他人に「子供を産め」と強要できるだけの何かを為しているのか、どうか。

 

そこまで立ち戻って考えないと、どんな論も成り立たないと思う。

そして、そういう後進になにかを強要する、という「大人の資格」は

小泉竹中の甘言に乗り、「自己責任・努力不足・自業自得」という形で、有権者がともに社会を背負うという責務を投げ捨てた時に喪っていたんじゃないか。

 

 

 

当初あの甘言に乗って小泉竹中を支持したおっさんとして、つくづく思います。

とりあえずさ。

若い連中に

「社会の観点からこれこれしなければならない(云々)」

というには、後ろ暗いものを抱えすぎてると思うよ、俺自身は。

だから、若い連中に「ああしろこうしろ」というような論調には、どうしてものれないのです。

 

 

しかし日経ビジネスにかぎらず、マスメディアとは不思議なものです。

生活保護バッシングの際に

「生保を受給したいと希望する人の適格性(可愛げ、と言い換えても良い)」

を事細かにあげつらっていたのに、

自身が後進に対して「結婚しろ子産め」と強要する際には

「社会を維持しろと強要できる己の適格性」

については不問に付すようで。

 

この辺の「他人を裁量する」適格性が、気分次第で自由自在に操作できるというのは、いくら見ても、やっぱり慣れませんね。

ふむ。

気付けば一週間ブログかいてなかった。

何があったというわけでもないんだけど、なんとなく。

そういった次第でなんとなく再開する。

 

住んでるところの図書館で映画やってた。

以前見たけどスクリーンでは見てなかったんで、もっかい見るか、と暇なので見てきた。

www.youtube.com

 

やっぱ大画面はいいなぁ。

話はベタだけど、やはり面白い。

久々に他者の映画評も気になって検索したら初っ端にIRONNAの偏見丸出しレビューが引っかかって、しょっぱい気分になった。

おっさんおばさんと青二才とこじらせの動物園たるWEBはたぶんまだ残ってると思うけど、アンテナ低いと引っかかりにくくなったよね。

どんなもんであれ、テンプレで「受ける」感じの文体にまとまってる小奇麗な文章が先に出るようになって来た。

洗練されてるようでいて、芸がない。

 

俺はもっとこう、文章も拙く論旨も不明確だがなぜか力を感じさせるとか、有象無象のどうってことのない人の熱量すらかんじさせない気の抜けたレビューや批評にすら表れるその人のクセ、その人独自の視点の偏りこそ面白いなと思う質なので

「ムラやシマウチでは、そういう見方ってウケるよね」

って楽屋落ちを狙い済ました(ゆえにPVも伸びて検索上位にものってくる)のが苦手。

見て感じたものの解釈をそのまま出すのではなくて、精妙な文章だけど

「こう書いたら、きっと評判はいいよな」

って底意がうっすら透けて見えるような、そんな文章が苦手。

 

どのような方向の文章であれ、受け取る奴の反応を見越した文章って読んでて面白くない。

もっと揺れてるブレブレな文章の方が、ネットを徘徊する時には読みたい。

いっぽうで自分のブログも『シマウチやムラ』に向けて届いてるんだろうな、と思いながら書くことがあるだけに、本当に気をつけたい。*1

範囲を絞って響くとこには響くけど、それ以上の広がりのない文章って味気ない。

ここ一週間書けなかったのも、自分の文章がそういう傾向あるのに気付いて、ちょっと億劫になってたのがあるかもしれない。

いま書いてるのも響く範囲は限られる感じになってるかも知れんけど。

どうせなら飛び越えたいよな、と思った次第。

*1:借り物の視点に無自覚なのって自分で思っている以上に多いので、幾ら気をつけても治らないんだけど、心構えとして。