afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリのはずだったが、今は路頭に迷ってる

ブレードランナー2049(続)

 今週最後だったので、先日2回目を見てきた。


映画『ブレードランナー 2049』予告2

  

最初と違って話の筋は分かってたので、前回とはだいぶ違う感想になった。

他所でも公開が終わってるところもいっぱいあると思いますが、以下、割とネタバレしつつ書きます。未見の人はこの後は読まずに帰ってね!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「劇伴がいまいち」って最初の感想で書いたじゃないですか。

2回目見たらしっくり来ました。不思議。

前作があんまりバッチリ決まりすぎていたので、それに引きずられた感想だったのかもしれません。これはこれでアリじゃん、ってエンドロールのところでしみじみ感じましたね。インパクトという意味ではやっぱ前作のほうがあるけど、いまいちはちょっと辛い評価すぎだったと思う。

 

K(ライアンゴズリング)は相変わらずいい、と思いましたが、かわいそう感は初見より薄くなった。

初見のときは話を追うのに一杯一杯で、K状況に振り回されまくりじゃねーか、って思ってたんだけど、ラストのデッカード(ハリソンフォード)拉致ったラヴ襲撃のところは、納得ずくだったんじゃないかな、と今は思う。

「もしかして自分だと思ってたの?」

のシーンも、最初は「残酷だなこのババア!!」って思ったんだが、そんなに蔑んだような雰囲気ではなくて、みんな大義の前にはチリみたいなもんじゃよ、って達観がそう言わせたような雰囲気を感じた。

とどめにラスト直前のデカジョイのCMに絡まれるのでやけくそになった風に思ってたが、自暴自棄になったというよりも、自分のみに降りかかったこと全てを受け容れた感じにとれなくもない。

 

んで

K=ジョー大義のため、って言うレプリカントレジスタンス群のオバサンの言った事は受け容れつつ、「大義のために身を捨てる」ってのは人間らしいけど、より人間らしいのは親子愛じゃね? って選び取ったんじゃないかなぁ、と。

 

この辺はまた見たら感想変わるかもしれない。

しかしレプリカントたちが「人間らしい」って思ってる行為を受け容れず、それとは別の仕方でケリをつけたジョーのやり方は、より人間らしいな、と感じました。

 

OPの火柱立ってないけどアレな雰囲気の都市とか

ラストのずぶ濡れバトルとか、前作の雰囲気一杯でこれはとっても褒めたい。

あんまり露骨に寄せすぎても芸がないし、かといってまったく別のものにしてもそれはそれでブレードランナーじゃない、その真ん中のバランスを上手く捉えてる気がした。

あらためて考えると、劇伴もそうだな。

雰囲気はたしかに似てるけど、たしかに違う。

初回は似てる、しかし真似の仕方がいまいち、という印象だったけど、似せつつ2049の世界にキッチリあわせているのだ、っていう風に思えたので好印象になった。

 

総合的に、一回目見たときは「どうかな・・・」って感じだったけど2回目見ても面白かったのでこれは大丈夫そう。ソフト出たら買おうと思います。

 

あとどうでもいい感想ですが。

Kの入れ込んでたジョイあるじゃないですか。

起動音のアレ入れてたら売り上げめっちゃ落ちそうな気がするんですが、どうでしょうか。めっちゃ気になった。

吾もジョイみたいなバーチャル彼女欲しい!! めっちゃ欲しいけど

あの起動音で「あっ・・・(察し」ってなるのはご遠慮したい。マジで。

 

アレ、ジョイを作ってた人たちは止めなかったんだろうか。

もうちょっとさりげない感じにするというのを思いつかなかったのか?

吾がウォレスの中の人だったら、起動はマナーモードで音が外に漏れないように設定できるようにするね!

 

それはさておき

デッカードとステリン博士のその後も気になるけど、奇麗に終わったと思います。

満足度は高い映画だったんじゃないかしら。

毎日がエブリデイ。

寒いし体温下がらないし寝てられないし。
体が弱ってるのに眠られないってきつい。
そういう時に限って妄想はいっぱい広がっていくんだ。

繰り返し繰り返しの妄想。

 

「恋する死者の夜(作:古橋秀之)」の世界がもしリアルになったら?
そんなことを考えていた。
考えているうちに作品の本来の世界観からは外れてしまったが、なに妄想とはさふいふものだ。
というわけで思い出しながら書いてみる。

 

 

ある日を境に、世界が先に進まなくなった。
今日が暮れれば、夜明けとともにやってくるのはやっぱり、今日である。
その世界では死者が死者のまま生きている。
生きているというか、生きていた最後の日を繰り返している。
コンビニでおにぎり温めるバイトをしていたお兄さんは、スマホ見ながら歩いててついうっかり赤信号で渡ってトラックに轢かれたけども、繰り返しやってくる今日の中では、今日も元気よくおにぎりを温めている。
いずれも死ぬ前にやっていたことを繰り返してくれるので、社会を回すうえではいっぱい都合のいいことになっている。
少し困るところといえば、生きている人間が

「今日は今日だけれども、前回の「今日」とは違うものが食べたい」

などと望んでおにぎりではなくアイスをレジに出したとしてもお兄さんは

「おにぎり あたためますか」

と聞いて、こちらの返事を聞かないうちに冷たいアイスをレンジにぶち込んでしまうところだ。

死者は生前にやっていたことを繰り返すけれども、それは決して生者とのコミュニケーションが成り立つというわけではなくて、彼らが生前に過ごした日をそのままトレースしているだけに過ぎないのだ。

だから例えば、死者の生徒を前に生者の教師が前回の「今日」とは違う授業をしてみたところで
死せる生徒は普段の今日と同じように、決まったところで笑い、決まったところでノートをとり、板書もされていないままの黒板をにらんでノートをとる。その繰り返しが延々と続くだけである。

放課後になれば校庭を走る生者のランナーがどれほど速く、いやどれほど遅く走ろうとも、計時にあたる死者がいつもの今日とピッタリ同じタイムでストップウォッチを押し

「いいちょうしですね せんぱい」

などと血の気のない笑顔を浮かべたりする。

世の中が回る分にはさして問題はないのかもしれないが、こうして繰り返す「今日」の中で上がった収益や、被った損害は灯が変わるとリセットされてしまうのは大きな問題だった。
今日の経済活動をどれほど頑張ろうと、次にやってくる今日にはその利潤は引き継ぐことが出来ないのだ。
これはデータというのが無機的で言ってしまえば「死んでいる」ようなものだから、同じことの繰り返しになるのではないか、とか言われていたけれども深くは掘り下げて検証されたりしなかった。
ネッツのやり取りもまた、日付が変わったところで、今日の零時にリセットされるからだ。
ブックマークも、ブログの新着記事も、SNSの書き込み、2ちゃんねるのスレッドも同じく。
生者が中身を変えてブログを書き、スレッドを立てようなどと試みたこともあるけれども、不可能ではないがそれは今日の24時間の寿命しか持てないので、まったく議論や検討が深まることなく終わる。
最初のうちはそれでもわずか24時間のうちに限界まで交流を図る生者が居たが、それもやがて途絶えた。
画面の向こう、スマホの向こう側の生者がいつの間にか死者になっているということがザラにあったからだ。

死者になっても死ぬことはない、別に消えるわけではないというのは人々の自死に向かうハードルを著しく下げた。

それに経済活動に血道を上げていた人間たちにとって、今の状況というのはあまりにも味気ないものであった。
日暮れまで必死で組み上げた建物は夜明けとともに更地になり、荒野に伸びたはずの道路は元の原野に、川を跨いだはずの橋も夜が明ければ雲散霧消する、という今日が何度も何度も繰り返すようになればさすがに気が滅入る。
生者であればそうした輪から逃れて、生者だけで死者に囲まれて停滞した今日とは違う今日を生きればよいではないか、という挑戦も何度も試みられたが、生者は今日と今日の境の零時になると、今日を迎えたときの場所に強制的に引き戻されてしまうというのがわかってからはそうした動きも薄れていった。
何しろ無理をして今日目覚めた場所からはるか離れた場所に移動したとしても、今日の零時になれば自分の意志に関わらず元の場所に戻ってしまうのだ。しかも戻った後はすさまじい倦怠感と頭痛が襲うという副作用がついて回ると分かってからは誰も、今いる場所から遠出することをあきらめてしまった。
それでもなお今日の零時を突破しようとして遠く遠く逃げ出そうとしたチャレンジャーが居て、結局それは敵わずに想像を絶する倦怠感と頭痛によって落命したという話も聞いた。
以来その新参の死者は生前行っていたように夜明けとともに遠くに必死で逃亡する「今日」を繰り返しているという。

「にいさん こわいよ あたまが われそうだよ」

と呟き苦痛に顔を歪めながらふらふらと前のめりに歩く彼とすれ違ったことのある生者は、自分たちがどこにも行けないのだということを思い知らされて、さらに死へと誘われることになる。

繰り返しの今日が100回を超える頃になると、世の中はだいぶすっきりしてきた。
コンビニのバイトのお兄さんも死者なら、客も死者で、配送のトラックのおじさんも死者である。皆ルーチンを繰り返すだけになるともうスムーズに回るばかりで、そこには整然とした美しさすらあった。おじさんが抱えてくる食品トレーの中に入っている惣菜類も、いまでは死者がこしらえているものばかりになっているのだろう。
生者が紛れ込んではむしろこの秩序が乱れてしまう、と思えるくらいに死者たちの繰り返す日常は強固なものになっていた。
こうして社会の多数派が今日を繰り返す死者ばかりになると、「今日」とは違う今日を求めてうろちょろする生者の方がマイノリティになる。
ますます死へのハードルは下がるものの、ここに商機を見出したものが居た。
商機というのはふさわしくないかもしれない。どれほど生者から銭を巻き上げたところで、零時を過ぎればそれは「なかったこと」になるのだから。
とはいえ、残った数少ない生者に対して流行を仕掛けることが出来た人間はいた。

どうせ死ぬのなら、心地よく繰り返すことのできる今日を過ごしませんか、というサービスである。
参加した者の話を聞く限り、だいぶ簡単な話で、目が覚めた後にやりたいことをざっとノートにまとめ、それをそのノートにまとめた「やりたいこと」に優先順位をつけ、一つ一つ潰していってから零時直前に首をくくる、というそういう話らしい。
そうすれば死者となった後も「最高の一日」となった今日を永遠に繰り返せるのだ、というのが誘い文句。
うさんくさい。が、どうせ死ぬのなら面白いのかもしれない。
もっとも、死んだところで自分が「最高の一日」を繰り返しているのだということを死者たちが理解しているのかどうかはかなりあやしいところだけれども、それでも多少は死に際して報われるような気分がするのは分かる気がする。

そんな話を残り少なくなった生者とした。

死を誘う商売が増えたのと同様に、生に執着する生者向けのサービスも考案され始めていた。
仕事してるフリのサービスは、夜明けから日暮れまで、あるいは零時までの間に着手から完了まで済んでしまう仕事を次々に考案し、それを仕事がしたい生者に割り振っていった。その労働の成果はもちろん翌日には持ち越されないので徒労である。
だが仕事をはじめ、そして終わらせたという達成感を得るためにそのサービスを繰り返し使う生者は少なくなかった。
同じ仕事を繰り返しても面白くないのでバリエーションは増えていくものの、たかが一日たらずで完結できるような仕事など大した成果も生み出さない。それで徐々に刺激が薄れていったところに、ある男が完成したモノを買い取るというサービスを思いついた。
男にしてみれば、単に今日買えるものは、次の今日でも買えるまったく変わり映えしない今日の繰り返しに飽き飽きしていたところ、何か目新しいもの、それこそゴミでも金を出して買ってみたいと思っていて目についたのが、その日限りの仕事で生み出されたモノだったに過ぎないのだが、それを買い取ると言った時の生者の反応が心地よくて、何度も繰り返して買うようになった。
もはやあらゆる商店の店員たちも死者となって久しい昨今。
棒読みの「ありがとうございましたぁ」ではない、抑揚の付いた「有難うございます!」というその言葉が、男にとっては金を出して買うに値するものになっていたのだ。
どうせ零時を回れば財布の中身は元通りだから懐は痛まないとはいえ、そうした金の使い方は気の滅入る今日の繰り返しの中では数少ない気分転換になるのだろう。

残り少なくなった生者たちは、それでも今日がいつか終わるのではないかとどこかで期待している。
零時を回る前の24時間で会える範囲に生者が残るかぎり、生者は生者を求めてさまよい続ける。

今日を繰り返すようになってから、町は暗くなった。
繰り返す以前から死んでいた死者たちは、夜、明かりをつける。
今日を繰り返すようになってから死んだ死者たちは、明かりをつけずに夜を過ごす。
繰り返しの今日の中で、生者の活動とは別に今日は前回の今日とは違うのだ、と感じさせてくれるのはこの夜の光だった。
その夜の光が以前の今日よりは減っていると確認するたびに、生者たちはたしかに自分は生きているのだと感じている。
そして見える範囲で光の数が減らなくなった時、最後に残った生者は自分の家の明かりを落とす。

いずれ夜の光がまったく変わらない今日がやってくるのかもしれない。

生者たちは皆、そんなことを思いながら眠りにつく。
出来ればその今日まで生きてはいたくないな、と思いながら。

 

 

繰り返しってベタだけど厭だよな、って。
中でもこの作品の場合、おいて行かれてる感がすごく厭。ディティールは忘れてるけど、その辺の感触はまだ生々しい。

古橋の短編のはもっともっと地獄感がいっぱいいっぱいで、それだけじゃないのもいっぱいいっぱいなのでお奨めです。
・・・新装版とか出てるんだね。いい機会だから読み直そうかしら。

 

 

寒いね。

息をすると、鼻の奥がツンと痛む。

痛すぎて涙が出るくらい。

それはそうと

「息を吸う」「息を吐く」ってどうしても口でやるイメージになって

「鼻で」息を吸う、とか「鼻で」息を吐く、とかそういう風に指定されないとまず無条件に口で呼吸したがるようなフリがあるのはなんでなんだろうか。

すごくどうでもいいけど気になった。自分の中ではあえて意識して呼吸をするときにはまず口だな、っていう条件がインプットされてる模様。いつ身についた習慣なのかは思い出せない。

 

どうでもいいね、ほんとに。

 

どうでもいいんだけど、鼻の痛みで涙が出たはずなのに、哀しい事や寂しいことを思い出したりしてなぜか少し泣く。

吾ながら単純に出来てるな。

けど寒すぎて鼻が痛くなったんだ、って言い訳が出来るのはいいかな。

いちばん辛いのは吾ではないのに、湿っぽいのはNGな感じなのに、泣いてしまって申し訳ない、という気分も少し薄れる。

オッさんが泣くのは割と心配をかけることである。気をつけなくてはいけない。

 

今夜は喉を痛めないように、マスクして眠る事にする。

こうすれば涙は出ない。

おそらく。

心は時々、あなたのそばに

www.jeta.work

 

少しずつ新着のブログを読んでる。

読みながらつくづく思うのは、始める人多いんだな、ということ。

新着順の表示が無くなってから引っかかるようになったのは

・既に話題になってるブログ

・たまたま踏みに来た人のブログ

はてなトップページに取り上げられたブログ

くらいで、本当に「ついさっき始めました」みたいな人が見事に不可視化されてたんだなぁ、というのを思い知らされる。

吾のアンテナも低すぎるんだけどね、新着マジ便利。

しょっちゅう混じるまとめブログっぽいのも微笑ましく思える。

そればっかり引っかかるわけではないので。

 

しかしこうして新着順を眺めてると

ただ書いてるだけ、のブロガーなんて誰にも届かなくてもOK牧場、というはてなのアツい意志を感じざるを得ない。

 

書いて公開しました、だけではブログ界隈で生きていくのは(難しい)ってのは分かるけど、ユルいどうでもいいブログを覗くのも好きな吾としては、公式からは漏れてしまった最新のブログの読者一番乗りになるのが楽しい。

 

今日は寒かったですね。

 

くらいでもいいんですよ、読む側としては。

読者にとって有益な情報を与えたい、という意気込みのブログも貴いけど、ただ思ったことをそのまま書いただけ、というのもアリだと思うのです。

人間は一日の9割くらいをクソどうでもいい雑念にとらわれながら生きているわけで、その中であえてブログに書いた「どうでもいいこと」ってそれはそれで中々面白いものではないだろうか。

頭の中でグルグル回る星の数ほどの雑念の中から、「今日はこれを書こう」と選ぶのは、雑念をそのままにして日を終えるよりは何かしら有益な気がするのです。

積みあがっていくと、心の中の雑念のうち、自分が書きたいと思うネタの傾向も分かってくるだろうし、繰り返してるうちに「前と同じようなネタ」も洗練されていって読者から見ても「読むに耐える」ものになるんじゃないかな、と。

 

何か専門をもって書いているのでもないかぎり、自分で「これは無価値だから書くのやめよ」とか判断して止めておいたらブログを更新することが無くなってしまった・・・みたいなのはちょっと寂しい。

 

なにが価値かは読む人が決めるものだから、独り決めせずにまずは書き続けるのが良いです。書かないかぎりは価値があるのかないのか、それすら決めようがないわけですからね。ブログ始めた人はできるだけたくさん長く続けてほしいので、あまり気負わずにバンバン思ったことを書いてほしいな、と感じた次第。

 

とりとめのない話になったけど、せっかく始めたんだからなるべく続けた方が面白いよ、ということでオナシャス。

雑に書いても、テキストになることでちょっと頭がすっきりするように感じられるので、何でもいいからぜひ続けましょう。

麗しきディストピア

献灯使

献灯使

 

 

 どこか忘れたけど、書評してるブログの記事を読んで気になってたので読んだ。

とても面白い。

この震災後日本はちょっと住んでみたいね。

すごくダメな世界だけど、ダメなりにダラダラ続く感じがいい。

何よりそのダラダラ続くダメワールドから逃れる術がないのが素晴らしい。

何の因果か知らないけど死ねなくなった人たちの方は自責の念に苛まれつつその牢獄から抜けられないのが素敵。

こういう絡みつくような生き地獄ってぞくぞくする。

 

 

一方でそんなしょうもないダメワールドを所与の条件として最初っから受け止めてる子孫たちの逞しさもたまらない。

客観的に見たらひ弱なんだけど、そのよわっちい命を実に謳歌してる観がある。

死ねない老人たちが自分の命を持て余し気味なのとコントラストがきつくていいね。

 

これ「五分後の世界」と「ヒュウガ・ウィルス」みたく

この世界観使った続編とかでないかなぁ。

この世界、一冊で終わらせるにはもったいない。

 

人間は、文字どおり未来永劫、自らの視座から離れることはできないのだ、っていう諦めを噛み締めたい夜にお奨めです!!

憎まれっ子世にはばかる

イヤよイヤよも好きのうちだと思ったか?

甘いな!

○したいほど憎んでるよ。

 

mizchi.hatenablog.com

 

ブコメの伸びのすごさから見ても分かるとおり、ヘイトを一身に溜め込むこの仕様、まったく改める気配がない模様。

・・・もとい最後のほうでなんか呟いてますね。なるべく早くオナシャス。

 

さておき。

なんでこう悪いほうへ悪いほうへと技術は爆発的に伝播するのでしょうね。

これが『カネ』というものの持つ本質的な邪悪なのかしら、などと妄想を逞しくしてみたり。

ゼニが欲しい、という切実な思いに囚われきった人たちにとって

そのプッシュは絶望的に憎まれるだけだよ、という「潜在的にゼニ持ってかれる側」の画面の向こうの人々の気持ちはどうでもいいということなんだろうか。

 

上のブログでもそうしたヘイトを一身に溜め込んだ結果、常時オフ→表舞台から衰退していった技術が例示されてるけど、そういう技術も短期間は一世を風靡する事ができるからこそ重宝されるのかしらん。

 

便利だな、ってみんなが使う

便利さに付け込む小知恵の回るビジネスマンが潜り込む

鬱陶しい広告を乗せてばら撒くビジネスモデル確立

有象無象が真似する

いい加減付き合いきれなくなった消費者が忌避する

流入する人が減る、広告効果が減る

「ああ、あのクソ広告に使われてた技術ね」という悪評がベットリ付く

誰も使わなくなる 

 

大雑把な印象だけども、だいたいこんなサイクルがあるように見える。

広告という寄生虫は耳目を集める技術を次々乗り換えていくだけだからコストもお安くフリーライダーだけども、乗っかられる技術を作った人たちの周りはあまり美味しくない世界だなぁ、って思った次第。

 

すごく広い意味で、使う奴の善性に対して信頼しすぎているのかもしれないね。

その辺はこれからは技術屋さんたちも気をつけていかないといけないところなのかな?

モラルとかじゃ道徳とかじゃなしに、単純に生き延びるために。

 

「広告いっぱい晒すのに使えるいい技術だね、うちと取引しよう」

って広告やさんと契約したはいいけど、いずれ

「見ようと思ったサイトを見るときになぜかスキップできないクソ広告があって、それを支えた技術を作ってました」

っていう評判が広がるのは、回りまわって毒になりそうだ。

 

 

Web時代になってから「広告屋がたくさん●にますように」という思いが亢進するようになったオッさんの偏見でした。まる。

 

ゼニは大事。とっても大事。

けど不特定多数を問答無用で「イラッ♪」とさせつつ目指すべき有頂天ではないと思う。

自分用に。

www.inmyzakki.com

 

これはありがたい。

ネットうろうろするときに、ただ目的もなくフラフラするにはこういうのが好き。

普段ならスルーしてたようなジャンルとか、まったく交わらない人のブログとか引っかかってくるので、それを覗き見するのが楽しい。

新順はそのゴチャゴチャ感がいいんだよね、吾に。

 

しかし「欲しいよ欲しいよ」と言ってただけの吾と違ってちゃんと自前で用意してしまうのはエライ!

行動力って大事ですね。