afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリ

至高の価値

金を儲ける、ことが七つの習慣最優先事項だからきっとこうなるんだろうな、って。

 

 

インターネットの「平気でうそをつく人たち」 - いつか電池がきれるまで

リアルでも平気で嘘をつき、それで稼ぐのはたくさん居る。近いところでは神戸製鋼とか。けどネッツは自己責任バリバリでペナルティがほとんど存在しない上、個人が平気で嘘をついて稼ぎやすいのが厄介なんだと思う。

2017/10/20 20:19

 

ライフスタイル売りの破綻を回避するために嘘をつき、その嘘をどうにも覆い隠せなくなると「覚悟決めてやってんだよ」で居直るというパティーン。

 

ライフスタイルを売りにしてもOK牧場、ってのも

嘘がバレても銭になってるなら居直って逃げ切ればOK牧場、ってのも

「金を儲ける」という価値基準が天辺にないとどこかでブレーキかかってたよね、って思う。

ライフスタイルはどこか羞恥心がブレーキになってたかもしれない。

嘘はもっと深いところで恥じ入る気持ちがブレーキになってたかもしれない。

けどそうはならないのはやはり、金を稼ぐということの価値があまりにも超然とした価値としてその人の中に聳え立っているからだろう、と。

ライフスタイルを売らずに銭が儲からない人生。

嘘をつかずに真っ正直に生きる事で商売の機会を逸失する人生。

そのことの辛みが、自らの良心の呵責をはるかに越えて痛みとして感じられるからこそ、彼らは嘘をつき、居直るんではないかしらん。

 

 

上記のブログ記事では騙すのが悪い、っていうのもあってそれにはおおむね賛成なんだけども、同時にこれに引っかかるのは「価値観を共有する人たち」ぐらいだからまあ放置してもいいんじゃね、っていう感想も湧く。

アフィリエイトビジネスでウソライフスタイルでWEBサロン経営・啓発セミナーでニコニコ! って人たちが必死こいて大挙して擁護してるのは、

 

この商売形態のトップランナーが潰される事で、ビジネス自体が潰れたら敵わない

続くフォロワーたる俺(私)が儲けられないじゃん!!!

 

というどこまでも自己都合のなせる業なんじゃないかな、って思うの。

 

DeNAWeLQ騒動でほかほかになった時に

 

このビジネスの何が悪いんや!!! 

 

っていきり立ったまとめサイト・ライターがいっぱいいたの思い出した。

あの騒動の時は上位が潰れたら俺たちにもお零れがあるぜ、って便乗してぶん殴ってたまとめも居たのがカオス風味だったね。

 

けっきょく自分の商売の先に在るもの、居る人を微塵も考えていないってのは割とリアルでもよくあることだよな、って感じた。

リアルだとまだペナルティがあるからそれがブレーキになってるかな、という気もするけど、神戸製鋼なんかは40年前からやってるわけで、それも微妙なのかな、とも思ったり。

あれはもう

「不況不景気でギリギリまで追い込まれて仕方なくやった」ていう見立てはあんまり響かなくて、単純に

「バレなければこれで儲かるんだし俺がニコニコ!!」

っていう価値基準でやらかしたんだよね、って思う。

・・・まあそれでもこれから多分キッチリ落とし前つけることになるんだろうから、リアルでは、先のことを想像できる人や企業はキチンとブレーキが働くだろうな、という予測は立つ。

 

ネッツはどうだろうね。

「騙して売ってるほうが悪い」よりも「騙されたお前が悪い」の方がクールでかっこいいみたいな空気あるよね。自己責任論の横溢した世界観。

「苛める奴が悪いんじゃなくて、苛められる理由のあるお前が悪い」

「セクハラする奴が悪いんじゃなくて、セクハラされたときに反撃しないお前が悪い」

みたいな感じでとにかく声あげた被害者側にマウンティングすればカッコいい、という風潮。そもそもマウンティングしたいだけのモブが集りやすい空間というのを脇に置いても、なかなかきっつい世界ですよね。

 

マウンティング・モブに集られずに、銭儲けが至上価値で他の何者をもないがしろにして恥じるところのない人(しかもこういう人に限ってネッツの声もでかいし入り口も広いんだよね、流入数を引き上げるテク磨きだけは誠実)を避けながら歩くインターネット。

 

どんどん狭くなっていきそうです。

どうしたらもう少し風通しのいい健やか空間になるのかしら。

癒されねばならぬほど傷ついているのか

今週のお題「私の癒やし」

 

いきなりお題を否定するような事を書いてしまったが、割と真面目に。

まあどんくらいのものを「癒し」と呼ぶのかによって変わってくるんでしょうが。

なんかほっとする、平常時よりα波とか何とかそれっぽい奴がやや多めに出てる、から

それこそ神秘体験みたいな今までの人生で垢のようにこびりついてきた全てのストレスが奇麗さっぱり消える癒しまで、幅がメチャ広いような気がするんだよな。

 

普段ほっとする、ルーチンに組み込んであるような手軽な奴を「癒し」と呼んでいいんだろうか、という疑問が湧く。

もうちょっと荘厳な意味のある言葉のような気がするのだ。

ということでちょっとググって見た。(癒し 辞書、で検索)

dictionary.goo.ne.jp

 

うん。

ネッツでは吾の認識の方がずれていることが証明された模様。

このくらいの「癒し」なら、日常にいっぱいないと辛いかもしれない。

吾には何かあるかな・・・?

気分がすっきりする、とかならストレッチだし

アタマがすっきりする、とかなら瞑想だったりする。

マインドフルネスは集中力はあんまり上がらないけど(やり方が悪いのだろう)、気分転換にはなる。これも地味に続けてるうちになんか馴染んできた。

てか、ネッツ的な意味の日常の癒しって吾の場合、

 

毎日変わらないルーチンが続けられる事

 

だと思った。仕事もそのほかでも、いろいろ他人の振り回されるのが多い分、自分のコントロールできる範囲のことで代わらないものがある、っていうのは結構メンタルのバランスに大きな意味があるのかもしれない。

瞑想もストレッチもそれ単体ではそんな意味ないけど、ふだんから続けてるからなんとなく安心できるとか、それをこなさないとどうも収まりが悪い、その代わり、やり終えると肩の荷が下りた感じがしてすごいすっきりする、そんな効果が大きいんじゃないかなって。

「続けている」ということそのものが大事であって、続けている内容は割とどうでもいいんではないか。

 

ルーチンが固まれば、それ自体が癒しになるってことはあるんじゃないかな、って思いました。

何のオチもつかなかったな。

どこにでも宿る癒し・・・ということでオチにしたい。

www.youtube.com

太陽が恋しい。

インドア派なのに。

この一週間まともに太陽と顔を合わせていない気がする。

何なんだろうこの天気。

梅雨にも似たような展開はあるけど、秋のこの時期のこの展開は憂鬱。

ちょっと晴れたと思ったら一日もたずに三日は続くからは覚悟しろよ、とか。

いいかげん腐るよ。

また野菜騰がるのかなぁ。

昔々、蕪を高く掲げて「株騰がれー」ってやった総理大臣がいたの思い出した。

株騰がってるんだから代わりに蕪とか根菜安くなるといいのですがそうはなりませんか。

 

すごくどうでもいいことですけど数年前に知ってショックを受けたことがあるんです。

江戸時代って白菜なかったんですって。

白菜ですよ?

貧乏人が冬を乗り切るのに必須の野菜。

アレ無しでどうやって江戸の貧乏人は冬を超えたのだろう、って思ってたら

大根料理のレパートリーが異常に充実してたそうで。

なるほど、大根も冬の大物だからその手があったか。

けどなぁ・・・

一冬大根だけで乗り越えるの厳しくないだろうか。

 

白菜のない冬、というのを想像して江戸時代には適応できないな、と思いました。

ポジションを露わにすると即座に撃たれる。

おそらくそれは狭量のなせる業。

 

 

「政治家はもっと庶民感覚を」みたいな事言ったら叩かれた - ヨッピーのブログ

カジュアルに語る前に、政治を語ることにどうしてこんなにも世間(自分含む)は不寛容なのだろうかというのも考えてみたい。ギスギスする元になるのは何でなのかと。

2017/10/16 21:14

 

 

 

自分に向かって飛んでくるクソい反応だけじゃないんだよね。

吾もまた、他者の語る政治的な何かしらに対しては噛み付きたくなるという欲求が湧く。

吾の場合は狭量すぎる人間性の問題にしておけばいいけど、これまでの経験上、リアルでもネットでも政治がNGなのは、まさにこのギスギスした空気を誘引するのに最適な素材だからに他ならない。

 

人は何故、他人の政治的な主張、より大きく言えば自己の権利を主張するような振る舞いに対して不快感を抱き、攻撃的になれるのか

 

語り口が気にいらないとか、そもそも主張が気に入らないとか、自分の傾向に合わないとか、そういう風にまぶしてるけどよくよく掘ってみると吾の場合は

 

「単に自己主張してるオマエが気にいらねえ」

 

っていうのが垣間見える。

その視座で他の人の振る舞いを見てると、他の人もまたやっぱり似たようなもの。

とにかく「何か自分について(自分の欲求について)」語る人についてイラついてる。

 

そういう見方もあるよね、とかせいぜいぶつかり合う主張だったとしても

「なるほどお前の言い分もそれはそれでありなんだろうよ」

ぐらいの態度で収めるのが穏便なはずなんだけども、上記ブコメの少なくない奴がそこを踏み越えてぶっ叩きにかかってる雰囲気が見える。

んで「そうなってもしょうがないよな」って思ってる吾が居る。

上記ブロガーがやたら発進力が高いから、その分叩かれてもしょうがないとか、事実誤認だから訂正するまでぶっ叩くとか、まあ理由はいくらでも後付できるんだ。

 

要は「何か主張される事」が気に入らないんだろ、って。

 

こういう根っこがあるとさ、

どんだけ建設的であろうとしてもそれは無理だよねって思うの。

吾が身ならば多少は省みて抑制しようと変えるべく頑張ることもできるかもしれないけども、構えからして既に対立的なものが内包されてる以上、これを普段のリアル社会からは遠ざけておこうとなるのもむべなるかな、と。

 

吾もだけどさ、ネッツになるとホントに人に対する寛容度が下がるよなと思う。

最後まで人の話を聞けと。

簡単に敵/味方の判定をするなと。

最後まで聞いた上でどう受け止めるか分からんときにはとりあえず留保しておけと。

短絡して白黒つけて薄っぺらな敵/味方認定してひとまずの安心を得たい気持ちがあまりにも強すぎる。

リアルだと沈黙とスルーによって対処するであろうことも、よって集ってフルボッコ

自分で言うのもなんだが、これは何事かを語る上で大変害のある態度だと思う。

お互いに。

 

語る上での大前提として

 

奴には奴の言い分がある(吾とは違うけど)

 

くらいの大らかさがないまま、政治についてアレコレ軽く語りやすくなる社会というのはあまり明るい社会とも思えないんよな・・・。

そしてネッツって、自分と違ったらとりあえず叩く、という作法、わりとまかり通ってますよね?

これで政治について語るのだけハードル下げるのは危ない気がする。

 

なんだか「政治に相応しい人間は限られてるから、制限選挙に戻せ」みたいな論調になってしまってアレだけども、語る上での作法を弁えた人たちの間でなら、もっと活発になってもいいけど、ネッツはそういう空間ではないよなぁ、と思いました。

 

 

※あと余談だけど赤絨毯とか庶民感覚のところはそれなりに分からない事もないけど

吾はどうせなら秘書をもっとたくさん雇えるような環境整備をしたらいいんじゃないかなって思った。

政治家一人じゃどんだけ優秀でも有権者との回路が限られるし。秘書が多数居れば、そこから引っ張り上げられる庶民の要望の回路もそれだけ増えるんじゃないか。そうして庶民の抱える欲求や要望を正しく掬い上げることができるのなら、政治家本人が庶民感覚に欠けるとこがあってもそれでいいんじゃないかなって。

それに、政治家さんの立法能力を高めるためにも、出世レースで負けた官僚さんたちを政策秘書として大量雇用して官庁に伍して立法が出来るんだぞ、っていう実務能力を鍛える・・・ってのもアリではないか。

能力に問題はないけどたまたま時機を失してしまった、そんな官僚が天下るよりかは有効にその力を活用できるんじゃないかなぁ、と思った。

必然の帰結。

長かった。

どんだけ読むのがしんどいんだ。

もう学術系の本なんてよまねぇ。

 

 

日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学―

日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学―

 

 

面白かったけどね。

まー本文の肩に(1)(2)(増田、2002)とかそういうのがバンバン出て頭がクラクラする。

昔は大丈夫だったが、もうだめだね。

加齢とともにそういうのに対応する集中力がゼロになってる。

一月かかった。

補遺と注はほとんど飛ばし読みしてこれだから、集中力の持続時間がすごい衰えてるんだと思う。

 

内容もまだ完全に理解できたというわけじゃないんで、もういっぺん再読する必要があるような気もするけど、その気力が湧くかな・・・

とりあえず、学術的には、巷間広まってる在特会の構成要員の分析とかその動機の分析がだいぶずれてると言うのを検証した本です。

サンプル数が30人規模というのが何とも頼りないですが、在特会周りを研究対象とするとなるとこの辺が限界なのかな、と思ったり。

そう考えるとこれってけっこうな労作だったんだね、というのは本書でも認めてる。

  

ネットと愛国 (講談社+α文庫)

ネットと愛国 (講談社+α文庫)

 

  ※なお結論については認めていない模様。

 

この問題って、格差社会といわれるようになった世情もあって急浮上した感があるように見えるし、安田本も在特会に惹かれる人々を「しんどそうな人々」という括りでまとめてしまって、そこに動員される人々の政治的背景を無視しているけれども、そうじゃないよ、「元々そういう性向の人」がネッツという動員ツールを用いて在特会はその陣容を拡大していったんだよ、という話。

そも入り口段階でまったくのノンポリが引っかかるわけではないのでよくいる市井の

「なんとなく不安」「なんとなく不満」

の捌け口としてヘイトスピーチやら在日特権問題やらを見たら思い切り間違うよ、って。

んで。

時流・世情によって勃興した不安の解消装置として「在日」という共通の敵を吊し上げるという運動が浮上したのでなければ、では今の在特会運動はなんなの、というところにひとつの解を出してる(著者もサンプルデータが少なすぎて最終的な解たりえないことは言及してるが)わけなんだけども、底流にあるのは何のことはない、戦後処理の問題でした。

こりゃ右も左も「在特会の底流は何か」なんて本気で分析するわけがないよな、と納得。

在特会を生み出したものが露見すれば、在特会よりさらに厄介な戦後処理問題というガンと正面から向き合わなくちゃいけなくなるからね。

 

そんな胆力のある人間はあまりいないぞ。

 

戦後処理の破綻と矛盾の当然の帰結として結実した在特会

よりも

底辺イキリオタクが右に被れてなんか派手にはしゃいでるのが在特会

 

ってことにしておいたほうが、社会の調和にはマッチするよな、と思った次第。

それで目を逸らし続ける事が出来るのかい? という疑問はたぶん当然に湧くけれども・・・なに大丈夫。

「人類が立てうるもっとも確度の高い推計」といわれる人口動態推計に基いて今日の少子化高齢化危機がはるか昔に予見されていたにも拘らず、目を逸らし続けてはや40年。それでも何とかやってこれたのだ、きっと戦後処理問題も大丈夫!!

 

そんな現実逃避をしたくなるときにおススメです。

けどこの本、

在特会フォーカスよりもむしろ※特にP.184~ の

三者関係(日本政府ー在日コリアン北朝鮮、韓国)と

二者関係(日本政府、自治体-在日コリアン)のもたらす捩じれのほうを主題に置いたほうがいいんじゃないかって思った。この視点をベースにしたら色々と認識のズレを説明できるような気がする。

三者関係モデルと二者関係間の相互の影響の問題についてはエピローグの与那国ネタでちょっと触れられてるだけだが、これから重大な意味を持ってくるのは、二者関係に優越して展開する三者関係が社会に何をもたらすか、のほうではないか。

こっちで書いたほうがいいと思ったぞ。

長い雨

終日雨が降っていた。

せっかくの休日にこれかよ、と思ったが、そもそも休日だからって出かけるとかないよね、ということに思い至り、しばらく窓の外を眺めていた。ダラダラ降るもんである。

雨ってよくわからない。

一時期にどさっと振ってみたり、今みたいにダラダラ中途半端に振ってみたり。

ゲリラ豪雨とかいうレベルになるとまだ雲の様子でわかるんだけど、一瞬だけザーッと土砂降りして逃げるようなやつになると、今のダラダラ雨とさほど変わった様子の雲でないことが多い。

真っ黒じゃなくて、中途半端な色してるの。

昼間ならひょっとしたら透かして太陽見えるんじゃねえか、ってくらいなんか薄い感じ。

にもかかわらず降るときはドバっと降るからね。

意味が分からない。

この雲なら、こう来る、

そんな予想が空振りになることが多くて嫌になる。

通り雨でもざっと来ると重装備でないといけないけど、今のようなダラダラ雨だったら折り畳み傘でも割と平気。

どうせなら重装備で準備して出かければよいのかもしれないけど、雨降ってる時はいつもの癖で空を見上げてしまう。

そして「よっしゃこれは激しく降ることはないな」と早合点して折り畳み傘だけで出かけて、無駄足を踏むという展開。

最初っから見なければいいのに。

中途半端な雑な知見と経験則でひどい目にあっているにもかかわらず、なかなか抜けない。

だから台風のさなか用水路見に行っちゃう人のことはあまり強く非難できない。

きっと自分の中では大丈夫、って思ってたんだろうな、って。

この自分の中では大丈夫、という過信は経験しても抜けないし、侮ってはいけない気がする。自己判断で失敗して他人から揶揄されるとますます依怙地になっちゃうこともあるし、自分で大丈夫、って判断したことに対するプライドは高く聳え立つものがある。

 

自分で大丈夫やろ、って判断してずぶぬれになるんだから世話はない。

だれにもぶつけられない苛立ちを抱えながらストレスフルに雨の中歩くよりも、雨の日は外に出ないのが一番じゃないか。

 

出掛けない言い訳がもう一つできた。

 

せめて予報が「土砂ぶりになるよ」って言ってる時くらいはそれを信じてみたい。

信じて空振りで刺して降らなかったり、全然降らなかった時の苛立ちが強く印象に残っているから、あえて自己判断で勝手に「あんまり降らないはず」とか決めていたいめみるんだろうな。

こういう細かいところで

「前当たらなかったし、荷物になって損した」

とかそういうちっさいことを引きずる性格は割とどうにかしたい。

予兆。

夜布団にもぐりこむときに、これはちょっと寒いかもしれん、と思っても「まあいいや」とめんどくさがってそのまま寝てしまうと翌朝風邪を引いている、ということがある。

 

今朝がそうだった。

 

まだ頭が重いとかはないのだがすでに鼻がぐずぐずになっている。

せっかくの休日なのにこの有様とは。

毎度の事だが、ちょっと面倒でも一手間かければ回避できた事態だと思う。

季節がめぐるたびにすっかり忘れて、季節の変わり目にはいつも何かしら体調崩してるな。もうちょっと学習能力を鍛えなくては。

 

つい先日までは冷房ガンガン入れてたのにね。

季節の移り変わりってホント激しい。