afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリのはずだったが、今は路頭に迷ってる

変わる景色。

祖母の葬式が終わって広島に帰ってきた。

印象的だったのは葬式が変わっていたこと。

以前、父方の祖母が亡くなったのが、実家で参列した最後の葬式だったんだけど、その時とは激変といっていい変化だった。

 

何が変わったって、斎場で葬式を挙げたこと。

びっくりしたね。

田舎帰るたびに「最近の葬式は斎場ばっかりだよ」と聞いていたけど、イメージが全然湧かなかった。

 

父方の祖母の時の話でいえば、

通夜も告別式も全部、叔父の家でやった。

父方の祖母は老人ホームに入居していて家を処分していたので、叔父の家が代わりに使われた。

病院で息を引き取った後に遺体を家に移すのも、遺体の死に化粧から棺に納めるまで

世話は父や叔父叔母が自分たちでやってた。

神主の手配も自分たちでやった。

業者に発注したのは花と棺、それにレンタル祭壇くらいだったかな?

それまでの祖父の葬式も叔母の葬式もそうだったので、今回、病院から祖母の住んでいた家に祖母が戻ってくるときに、葬祭業の人が運んでくれたところからまず驚きでございますよ。

葬式前に総出で家を掃除して、ということも今はないのね。

葬儀の時になるべく人がたくさん入れるように、一番広い部屋から家財道具一切合切を運び出して、スペースを広げる必要もなし。

参列者は広い斎場に来てもらえばいいわけだからね。

昔と違って畳に正座する必要もなし、とても快適。

(ここは高齢化著しい田舎にはありがたいと思った。以前の葬儀でも畳に座りきれずに足を投げ出して参列していた人も結構多かったので、椅子席は大歓迎なのだ)

 

それから、集落の人が応援に来て、男は上に挙げたような部屋の大掃除と家具の運び出しなどの葬儀場の準備、女性は通夜や告別式の後の賄いの準備、といったこともなくなってた。

車庫に臨時に作ったかまどで公民館とかから借りてきたでかい鍋で煮物たくさん炊いたりとかも、今では珍しい光景なのだそうだ。

 

そもそも人が居ないんだよね。

みんなに集まってもらって葬儀をしようにも、とにかく頭数が全く足りてない。

 

それでようやく合点がいった。

父方の祖母が亡くなったときは、まだギリギリ集落の構成平均年齢が50代だったんだ。

今はもう、あちこちが60代で、30代はまばら。

生まれた集落には父の仕事を継いだ弟がいるが、それだけ。

ほかの同世代は、我も含めてゴソッと居なくて、弟ともっとも年が近い人で50代後半という断絶。

むかし大人だった人間の数と顔ぶれはあまり変わってない。10年ちょっとの間に物故した人も多いけれども、それも「むかし子供だった人間」が丸ごと消えてるのに比べれば、些細なことである。

むかし大人だった人間→今高齢者になって引退している。

一方で

むかし子供だった人間→今大人になってるけど、ここにはいない。

 

これでどうやって互助であれこれしろというのか。

人情が薄くなったとかじゃなくて、単純に人が居ないじゃねーか。

 

帰省してるだけの時にはそこまで気にならなかったけど、いざという時になると本当に人減ったんだなぁ、って痛感する。

帰省はだいたい盆暮れ正月だし、そんなときは学校周りが静かでもおかしくないよな、って感じだったけど、なんということでしょう、二学期真っ盛りなのに、学校にまったく人の気配がございません。

 

うーん。

こうなると斎場で業者にお願いするというのは自然だよな、と。

家族の負担も減るし、利用が伸びるのも当たり前であると納得した次第。

つか、今回の祖母の葬儀でも、近所の「動ける高齢者」の皆さんは総動員されてたわけで、それでもどうしようもないから業者にお願いしてるんですよね。

上っ面だけで人の縁で助け合えばいいじゃないの、って思ってたけど、助け合いにも頭数は必要、という基本的なこともわかってなかったのが吾ながら恥ずかしい。物事をちょっと甘く考えすぎてたね。

 

真面目にこれはやばいと思った。

人口減少なんてしょうがないじゃん、って思ってたけど

ただでさえ少ない人間が下の方からどんどん流出してる弊害を目の当たりにすると、この辺で食い止めておかないとさすがに拙いんじゃないかと思った。

 

で。

食い止めるのにはやっぱ仕事が必要なわけで、仕事を確保するには儲けなくちゃいけないわけで。

どっちかというと「緩やかに衰退してもいいんじゃないの」って思ってたけど撤回する。最低限いまのレベル・・・若い人間が一定数、残ってもいいかな、と思える程度の仕事と生活水準は維持しておかないといけない。

これ以上衰退したら、葬儀業者も人や問えないくらいに衰えたら、葬式も挙げられなくなるわ、まじで。

 

カネかけずに、お互い様の縁によっていろいろと回せばいいじゃん、というのもアリっちゃアリだけど、それは人が居てこその話だよな、と。

人が居ないんじゃカネ云々の前の話だよ。

 

国とかそういう大きいレベルのことは知らんけど、ちっさな集落で感じたことは

今以上に衰退しないためには現状維持は絶対条件で、それ以上を目指さないと引き止められない。

緩やかに衰退するなんて無理。

衰退すると決めたらその先は崖だと痛感。

 

しんどいけど前向いて必死で頑張らなきゃいけないんだな、と思った次第。

あんまり欲はないけど、なんか「稼がなきゃ」という気にさせられた週末でした。

稼いで戻りたいな、とか戻って稼げるような場を作りたいな、とかそんな欲。

自分で思ってたよりも、自分は田舎にとどまっていたかったのかもしれない。

距離を置いてこそ

自分の大きさを知る。

いや知ったのは小ささだけどね。

 

あの時こうしておけばよかった

もっと何かできたはずだ

 

そういうことを。

ただその時を待つしかないという状態で落ち着かない。

けど不安でたまらないわけでもなくて手持無沙汰感もある。

なのでたまたま電波はいったので書いてる。

半年近く続けてればこうして打ってるだけでなんかの慰めにはなるな。

 

分かっているし、嫌だけど、避けきれないもの

祖母が危篤だと連絡があった。

いつまでもつかはわからないし

意識は戻らないんじゃないかな、というので帰郷する。

田舎はネット環境ないので、しばらく更新しない・・・と思う。

 

夏に帰省しておけばよかった。

後悔はいつも役立たず。

見てきた


ブレードランナー2049 CM(30秒)公開後 2017.11

 

ネタバレ含む含まない問わずさんざん語られてると思うんで、印象を一つだけ。

ライアンゴズリング、ちょっと救いがなさ過ぎじゃないですかね?

劇伴は前作の方が好き。

 

たぶんまた見る。

 

タイトルに入れてるだけで内容に掠りもしない糞ブログ

昨夜の夜の記事がそんなだった。

BLEACHちっとも掠ってないのに、藍染さんのめっちゃ明言をつい調子こいて使ったら

PVが普段の6倍くらいになってる・・・

すいません、互助会系のランキングブログ散々罵った割に自分も似たようなことやってた。

 

タイトルで釣る。

 

見た人絶対これ腹立つよね。

検索履歴汚してしまった人には大変申し訳ないです。

 

しかし「巷間流布してるなにか」をタイトルに入れるだけでこんななるのかよ。

そりゃ皆こぞってランキング的な記事書いてあちこちひっかけてやるぞい!!

ってなりますわな。

 

検索で

開いてみたら

糞ブログ

 

そんな仲間入りができた気がしてすごくガッカリ。

読んだ人のガッカリ程じゃないと思うけど、もうちょっとピュアでいたかったよ。

 

今後はうかつにタイトルに目立ちすぎるセリフ引用するの控えたいと思います。

ごめんなさい。

強い言葉を使うなよ。弱く見えるぞ。

ちょびっと心温まる記事を見つける。

だからネットは面白い。

anond.hatelabo.jp

 

互助会ってさ。

「それがお互いのモチベーションの維持になってる」

「励ましあい高めあう仲間なんだよ、絆なんだよ」

っていう記事をあげてるのを見かける。

そういうスーパーメリットを無視して叩いてくる外野何なの? っていうのも。

 

うん。

その言葉どおりだったらかまわないんだ。

ただリンク先のはてなダイアリーのような事が起こると

 

「本当に、ただブログを書きたいだけの人たちなの・・・?」

 

っていう疑いがぐいぐい鎌首をもたげてくる。

 

高尚な物言いで他人をぶったたくのは、清廉潔白であればこそ許されるかなりチートな業だと思うの。

他人をぶったたくに足る完全無欠の人格の持ち主でなければ、殴るのに使ってる高尚な理想は普通にイラッ♪ としちゃうので地味に気になった出来事はいっぱい備忘録しておく。

パワフルな言葉って、それを直接向けられたわけでもないのに、すごく不快感を刺激するので不思議。言葉のパワーというのはこういうときに感じるね。

 

野次馬根性丸出しでこの記事書いてるし。

流れ弾に被弾して地味にイラッとしているし。

 

しゃあないやん、たとえば・・・本のこと検索してたら、

おススメ哲学書ベスト100!! とか

本のタイトル入れてるだけで内容に掠りもしない糞ランキングブログ(幸い? はてなブログではなかったが)を

I'm Feeling Lucky

とか表示しやがるクソゴーゴルの被害は吾も被ってるやん。やんやん。

何が feeling Lucky や。めっちゃ bad feeling やん。

 

失礼。変に訛った。まあ最大の問題は

検索したらいきなりクソみたいなランキング羅列ブログがだらだら出てくるゴーゴルさんや

新着記事の表示復活は頑として認めないくせに、互助でググッと上がる記事はそのままおススメしてくるのがマジで謎のはてなさん

だと思うけどね。

無法地帯が広がってたらそりゃあやりたい放題するわな。

人間の本能(楽してゼニがほしい)を舐めてはいけない。

彼らが悪いのではない、舞台が歪んでいるのだ。

 

なので出来ればごーごるもはてなも対策して欲しいのです。オナシャス。

 

どうでもいいけどタイトルのセリフ吐く藍染さんは企画七課の内海課長に似てるって思った。懐かしいな。

自殺は他殺。

そんなような本を読む。

 思ってたのとちょっと違ったけども。

拡大自殺 大量殺人・自爆テロ・無理心中 (角川選書)

拡大自殺 大量殺人・自爆テロ・無理心中 (角川選書)

 

 

 

報道で見かける無差別通り魔の後に

「死刑にして欲しかったので」っていう犯罪者たちのセリフで一番引っかかってた

 

「誰でも良かった」

 

のものすごいウソっぽさに対する回答が何かあるのかなあ、って思って読んだ。

ストレートにそれに対する答えはなかったけど、

タイトルどおり、自殺は他殺の反転現象 という解説に、ほええ、となった。

 

「誰でも良かった」

ってのには直接に答えてないんだけど、

「なんで一人で死なないの?」

という疑問には一つの答えを出してる。

 

それが

自殺願望 ≒ 反転したサディズム

なんだという。

サディズムも憎悪も、ほかのだれかを殺そうという意思も、ある時点で反転して自分自身に向かうのが自殺願望であって、自殺も他殺も、スタート地点は「他者への攻撃性」である事に変わりはない。

その後、攻撃性は内に向くか、外に向くかは流動的。

 

臨床例でも

攻撃性が自己に向いて自傷行為・自殺未遂が頻発する状態と、攻撃性が外部に向けられる状態が交互に出現する

パターンはけっこうよく見られるのだそうな。

 

この際に重要な役割を果たすのが「投影」

「投影」というのは

 

自分自身の中にあることを認めたくない資質・衝動・感情・欲望などの内なる”悪”を外部へ投げ捨て、他者へ転嫁するメカニズム

 

なのだそうで。

これで説明すると

自らの悪を よそに投影し、抹殺しようとした場合

 → 他殺へと踏み込む

(憎しみや敵意の対象である)他者の悪を 自分に取り込み、それを消そうとした場合

 → 自殺になる

 

のだと。

後者の具体例として、いじめ自殺が挙げられていた。
いじめっ子のほうが明らかにevilにもかかわらず、自殺という形で復讐を果たそうとしている面

すなわち、いじめの加害者側を名指しして自殺することで、その公にされたことを知った社会が自殺した「自分」に代わっていじめっ子を懲らしめてくれるだろう・・・という処罰感情の消化を目指した期待があるのだという。

 

そう説明されるとたしかに「復讐としての自殺」ってのはそういうことなのかなぁ、と思ったり。

 

んでこの本、拡大自殺として大量殺人についても「投影」でもって理屈づけようとしてるんですが、ここが分かるような分からないような。

社会が悪いんや、って自己の認めたくない内部の「悪」を外部に投影して、それを抹殺する事でスッキリ、まではとりあえずわかったとして。

その後、大量殺人しちゃった自分が死んじゃうのが、まだやっぱり分からない。

「投影」した相手を排除する事に成功したら自分の中の「悪」もいったんは解消されて、生への執着とかでてくるんではないかしら? って。

 

この部分について、本書では

「投影」して他者に押し付けてなかったことにしてみたところで、

自分内部の「悪」はスッキリ消えるわけじゃない

→けっきょく自分で、それを引き受けなくちゃいけなくなる → 自殺

どうしたって溢れる自己の「悪」に耐え切れない、その前段階として暴発としての他殺≒大量殺人があるけど、解消できないのでやっぱり自殺しちゃう

 

という流れではないかな、って解説されてるのですが、うぅむ。

そう言われるとそうかな、という気もするけど、そうなるとますます

「いやそれなら一人で抱えてしまいなさいよ、人に当たる前に」ってちょっと冷たい事を思ってしまう。

 

そも拡大自殺と本書で呼ばれている大量殺人の犯人について

「他責的傾向(要は責任逃れの発想)がめちゃくちゃ強い」

って分析しているけれども、こういう身勝手な棚上げ傾向って誰にでもありますよな。

・・・ちょっと主語がでかくなった。吾にはあります。見たことないけどない人もいるだろうし「誰にでも」は言いすぎでした。

 

話を戻して。

「他責的傾向」というのがトリガーの一つになるとして、

 

社会に復讐してから俺も死ぬ

 

までに拗らせる/拗らせない の閾値はどのへんなんだろうかと、その辺が気になった。本書では「自己責任論と他責的傾向は表裏一体」としているんだけど、なら尚更

どこからが危険な「他責的傾向マン」なのか、予防的に知りえないものかな、と感じました。

 

今さら自己責任論を取り下げた社会風土を作り出すことは困難だろうし、多くの人が抱えてる「他責的傾向」という奴を暴発しない程度に適宜ガス抜きしていく方法を考えたほうがいいのではないかしらねえ、とそんなことを思いました。

 

一番気になったテーマが大量殺人だったのですが、それ以外にも拡大自殺のカテゴリーで介護自殺とか、親子心中とか、テーマがテーマだけに憂鬱になる事例がいっぱい載ってます。

疲れてるときや気鬱のときは読んじゃダメ、ゼッタイ。

 

よっぽど元気で「へこたれないぞ」ってくらいに心が明るさに溢れてるときにはおススメかもしれません。