afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリ

テンションが上がらない時

それでも無理やりに上げていかなければならないとする。

人それぞれ自分を叱咤する方法はあると思うが、自分はとりあえず飯を食う。

お腹がいっぱいになったら緊張も解けるし。

お腹がいっぱいになったら、さしあたって喫緊の課題もなくなるので心が軽くなるし。

どんだけ大事な事だろうが、「飢えない事」に比べりゃ屁みたいなもんですよ、屁。

そう言い聞かせて何とか頑張る。

 

 

頑張るんだけど、これ結局プラスマイナスゼロどころかマイナスになってるとおもう。

いやお腹周りに肉はつくけど、お腹いっぱい食べたら胃腸に悪いし、そもそも自分の体調が「いや今は頑張る時間じゃねえよ」って反抗してるのを無理やりその気にさせるんだから、いつかばれる。

他人は騙せても、自分の心はたぶん騙せない。

 

「あっ、こいつホントはやる気ないけど無理してやる気のあるフリしてるわ」

って内心が気付いてしまうと、露骨にパフォーマンスが落ちる(吾の場合)。

無理して気合入れることで得られる餌がよっぽど美味しそうでないと、無理やり気合入れたにも拘らず、途中で息切れした時には

「まあいっか、こんなもんで」

ってやっつけ仕事になってしまう。

だいたい尻切れトンボな感じで終わっちゃうのはこの辺が理由。

 

そういった次第だから、

「無理して気合入れて始めたこと」→「完成はするけどなんかしょぼい」

「気合がのってやり始めたこと」→「完成はするがいつ気合がのるか当てにならない」

という非常に低いレベルでの取捨択一になるわけだが、気分的に気持ちいいのは後者なんだよな。

問題は、滅多に自分から気合がのることがないということ。

 

気合を入れるためのルーチン、みたいなものも紹介されたけど、そうじゃないんだ。

そういうの全くナシに、心から溢れ出すバイタリティみたいなのが欲しいんだ。

 

時限を切られて追い詰められてるときほど頭が回らないこのもどかしさ。

人類もう10万年くらい生きてるんだからさ、自分のやる気スイッチのオン/オフ自在に操る技術くらいは切り開いておいてほしかった。

その果実だけを貪る人類の末裔になりたかった。

思いっきり人のせいにさせてもらう。

やる気が出ないのは人類が悪い。

週末なんてこなければいいのに。

マルチタスクは人類の敵

たぶんそういうこと。

 

おととい「集中力が続かずふらついている自分にびっくり~ 」みたいなことを書いた。

 

afurikamaimai.hatenablog.com

 

さっそく暇に空かせて適当な本を借りてきた。こういう時図書館は本当に便利だな・・・買ってから後悔するダメージを局減できる。

てかタイトルに飛びついてちょっと立ち読みしてからすぐに買う癖をどうにかするべきなんだろう。

今回の本はまあ悪くはないんだろうけど、瞑想とかマインドフルネスの話でした。

面白そうだな、とは思います。ちょっと試してもみました。

けど雑念が次々に湧いて「呼吸に注意を引き戻す」という試みは失敗の連続で憂鬱になったのでヤメ。もうちょっと涼しくなってから試してみる。

 

そんなことよりもずっと興味深かったのはP.045

 

「人の考えることの95%程度は毎日同じことの繰り返し」

(アメリカの精神科医ダニエル・エイメンの言葉)

 

という話。どこまで実証された話なのか分らないけど、多すぎないかこれ?? という疑問がいっしゅんだけ湧いたけど、割と納得の数字です。自己の経験に照らし合わせると。

しかし95%とは。残りのたった5%ぽっちしか「その日なり」の思考がないってことだから、「毎日おんなじことの繰り返しだな」って思ってもこれは仕方ないです。

本書によればそれは「自動操縦モード」というのだそうで、

 

よくわからないところへ踏み出す事を避け、慣れ親しんだ方法を惰性で選び、何とかしようともがき続ける―――

 

ということなのらしい。うん、言葉のナイフが尖ってる。実に吾に刺さる。

ルーチンに陥ってるとは思っていたが、ここまで言われるか。

脳の傾向として否定できないものらしいけど、それを改善する方法として本書が提案しているのが「マインドフルネス」・・・という流れで構成されているのですが。

マインドフルネスやってみて上手く行かなくても自己評価しちゃダメだぞ、というアドバイスも書かれてるけど、なかなか難しい。

一つの事を終わった後「良かったか悪かったか」って確かめるのもほぼルーチンとして固まってるところがあるので、それを克服するのも大変そう。

困ったねぇ。

もうちょっと手っ取り早く集中力高める方法ないかな。

「筋トレみたいなもんで継続が大事だぞ」って言われてももっと即効性の奴、ドーピングみたいな奴が欲しい!! ってのはさすがにワガママですかね。

 

読んでいて実践は難しそうだな、と感じたけれども深呼吸した時はたしかにちょっと気分が晴れたので、よい面だけに意識を向けてなるべく習慣に取り入れるようにしたいです。

あとマルチタスクしてると徹夜明けの惚けた脳味噌になる」というのも実感として納得なので、なるべくこれも回避できるように過ごし方を改善していきたい。

 

終盤のマインドフルなコミュとか、マインドフルなビジネスリーダーは会社の利益と公益と合致させた聖人ですよ、って話ははっきり言って腑に落ちない(田舎の土着商店のロジぶっ潰して進出して利益が出なけりゃ逃げ出すウォルマートが称揚されてるとか)けど、おおむね面白い本だと思いました。

 

惰性に流される

たった今、ブログの継続日数を延ばすためだけに書いている。
一ヶ月以上継続してきたんだし、書くことないけどむりやり書いちゃおうという魂胆。
実はこういう下心で何とか今日まで続けて来れたところはある。

 

毎日続けなければならない

 

というものではありませんよ、毎日書くことでブログの質が上がるもんじゃありませんよ、という先人たちの言葉は実にもっともなんだけれども、それでも惰性に任せて書き始めると、いろいろと益体もないことが書けてしまうのもちょっと心地よい。

以前強い言葉を使うと引っ張られる、という内容で書いた記憶があるけど、逆にとりあえず書き出すことで引っ張られてみようじゃないの、という意図で今日は書いてる。

頭の中に浮かんだ雑念とか、まとまってないのをそのまま書き出す格好。

書いていると不思議なもので。

頭の中でだけもやもや浮かんでいる時には、まったく脈絡もなく繋がりもないんだけど、文字としていったん画面に浮かび上がると、次に心の中で湧いてくるのは書き出したそれとつながりのある雑念で、そうした雑念が連なって、何かしら「まとまった考え」っぽく見えるものが出来上がる。

不思議だけど、手書きのメモとかだとさらにこの連想のループは輪郭がハッキリしてきて、なんとなくスジの通った言い分みたいなものを拵えてくる。
手を動かして書くことで、想念が固定化されてだんだん思考にも一本の針路が出来上がる、という効果があるのかもしれない。

 

以上がアタマに浮かんだのをただダラダラ書いたもの。

ここまで書いてその結論らしきものとして思い浮かんだのが
リアルタイム進行のwebの言い合い煽り合いがヒートアップするのって、お互いに

「思い浮かんだことをとりあえず文字起こし」
 ↓
「ハッキリ結論を踏まえて論を立ててるわけではないので支離滅裂(お互いに)」
 ↓
「にも拘らずそれっぽい体裁は整えてるのでなんか(両方とも)理があるように見える」
 ↓
最初に戻る

みたいな事を繰り返して「けっきょく何の話してたんだっけ」ってオチに辿り着くんじゃないかって思った。
言い合ってる双方がマウンティングしてるだけだからヒートアップするってのもあるんだろうけど、お互いに頭に浮かんだことをそのままポンポンレスして行ってるだけで、実は両方とも話の落としどころとかは何も考えてないんではないか、と。

まあ上記の連想じたいがむりやり書き始めた結果辿り着いたものなんで、論証に耐えるかどうかというとまず耐え切れないと思うけど、直感としてはあんがい間違ってないんじゃないか、と思う。

しかし吾ながら、なんでこんなこと思いついたんだろうか? と遡ってみると・・・たぶん、これ書く前に牛乳石鹸動画の炎上ブリをはてなで眺めながら、どんどん自由自在に転変していく議論のスジを追うのに疲れたのが大きく影響してると思う。

何も意識しないでいるとアタマに浮かぶものってほんとに惰性に流されやすいんだな、と思った次第。
はてな見てなきゃ思いつかなかったであろう益体もない話でした。

72年前、戦争に負けた日。

だからというわけじゃないけど、盆の暇をもてあまして本を読んでいた。

盆はのんびりしてるようでそうでもなくて、なんだかいつもの休日と違って時間の主導権が自分にない雰囲気。

今年は帰省できなかったので盆のあいだ丸ごと親戚周りのあれこれなどで完全に潰れるということはないけど、帰省しなくてもなんとなくそわそわするもんですね。

こっちから親戚に電話する事もあれば、向こうから近況を尋ねてくる不意打ちもあったり。普段は電話キライで出不精なのでなおさらこの時期の波状攻撃には困る。

 

そういうときはこういうオムニバスがとてもいい。

 オムニバスって書いたけど、一つのテーマで「書いてください」ってお願いされたわけじゃなくて、各作家の既発表の作品をテーマごとにまとめたみたい。

 

一番古いのは戦中・・・ではないか、まだ大東亜戦争開戦前だから戦前の江戸川乱歩の「芋虫」ですね。以前読んだときよりもなんか、切なさが強く感じられる。

いろいろグロい感じのアレンジで映像化とか、リメイクとかされてるみたいだけど根っこはすごいやるせない。こっちにもっと陽が当たって欲しいなと感じました。

 

その次に古いのが海野十三の「地球要塞」

何だか紙芝居みたい。展開が大映ドラマっぽく大雑把でご都合主義だけど躍動感はすごいです。戦前の少年達に人気だったのも納得である。

「浮かぶ飛行島」を読んだ時は、あれは長編だったからかまだ謎解き感があったけどこっちはえらい展開がスピーディ。

あと時代の影響も大きいのかしら、敵が分かりやすく鬼畜米英になってた。作劇上の都合をさらに超えて戯画的な感じ。当時の空気感とかがなんとなく伝わってきて面白い。

「ポンラップ群島の平和」で荒巻義雄も収録されてるので、「紺碧の艦隊」の雰囲気ってここら辺から繋がってるんだろうな、というのも連想して、今ならどう書くだろう、と想像してみたり。

 

 

他にも興味深いのはたくさんあった。

東海道戦争」の筒井康隆は相変わらずだな、とか

手塚治虫の「悪魔の開幕」は「丹波首相を殺す」ってキャラがこっちのが丹波の哲郎じゃないのかよ、ってルックスだったり

星新一の「ああ祖国よ」は実に風刺が効いてるけど今ならコレよりもっと好戦的な反応するんじゃないかな、って思ったり。

山野浩一氏と辻真先氏の分はちょっと短過ぎてなんとも言えない感じだけど、おおむね読んでよかったかな。どれも短いので機会があったら読んでみてください。

 

個人的には収録作品で双璧は

今日泊亜蘭の「最終戦争」

小松左京の「召集令状

ですね。

小松左京は安定感がある。

けど今日泊亜蘭は恥ずかしながらこれで初めて知りました。

文章のリズムも気に入ったけど、こういうマトリョーシカみたいな構造の短編ってかなり好みなのです。

「フェッセンデンの宇宙」とか「世界をわが手に」とかね。

今まで知らなかったのがもったいなかった。

しかし戦前の作品と荒巻の牧歌的な分を除けば、どの作品も「核」っていうのが陰に陽に顔を覗かせてて、冷戦時代下では核兵器ってのはとんでもない存在感だったんだな、というのが全編通じての印象です。

 

でまあ、そこからタイトルに戻るわけですが。

 

冷戦も終わってだいぶ意識してなかったけども、さいきんはまた北朝鮮のアレコレもあって存在感が増してる核兵器ですけど、これまでも誰が所有しているかは措くとして、別に無くなってたわけじゃなくてずっと存在してたわけですよね。

「冷戦が終わった」という言葉で、ずっとそこにあった/今もあるのに、認識がぼやけてしまっていただけで。

終戦記念日」って言い方もそういう面あるんじゃないかなと読み終わって連想したんです。

「戦争が終わった」って言葉そのものには「勝ったか負けたか」の意味がくっついてないので

「だれ」と「だれ」が「戦ってた」戦争が終わったんだよ?

ってなるのは、ある意味当たり前の面もあるんじゃないのかなって。

 

よく「近頃の若いもんはアメリカと戦争した事も知らん」ってプリプリしてらっしゃるおじさんが吾の若い頃に居たけど、「戦争が終わった」っていう曖昧な言葉で逃げておいてその言い分はないだろ、とふいに思いつきました。

「日本はだれと、どの国とと戦い、結果がどうなったのか」という所にまで「終戦」って言葉では届かなくてもしょうがないんじゃないか?

「敗戦」と言うならその前段階としてまず「戦った」ことが想起されるし、その結果としての「敗北」ならば「だれと戦ったのか?」というところにまで意識が向くのが自然だけど「終戦」にはそういうのを想起させるなにかが欠ける気がします。

なんとなく「敗戦」はまだしも能動的だけど、「終戦」は受動的な感じがするんですよね。

その言い換えで「戦争に敗北した」っていう認識がぼやけて、そこからつながって戦った相手がアメリカだったってこと自体も上手く伝えられてないんじゃないかな、と感じました。

 

 

書かなきゃいけないこと

ってないよな、と。

ブログを継続して書くようになってから思ったんですが、普通に暮らしてると、頭の中ってすごくどうでもいい雑念がどんどん湧いてくる。

今まで気付かなかっただけで、毎日単調にルーチンを繰り返してるようで、実にいろいろと考えてる。すごくどうでもいいことを。

吾にとってブログは日記みたいな感じになってるから、「今日は何を考えてたか」というのを振り返ってみるんだけど、仕事してる最中でも、もちろん休んでる最中でも、けっこう一つの事に集中せずにいろいろ気移りしてるな、ということを実感。

手や口は動いててもアタマの中ではまったく別のことを考えてる、というのは今までも何度か意識した事はあるけど、気付いてみると意識するどころの話じゃないです。

ほぼ四六時中体とアタマが分離して動いてるくらいの頻度で、目の前に集中できてない。吾ながらよく生きてるな・・・慣れってすごい。

 

簡単に一日の喜怒哀楽の感情の起伏だけ追ってみても、一つの感情が持続する事ってあんまないんですよ。次の感情の波ですぐに消えてしまう。思考も一緒で、何か考えてても、すぐにちょっとした拍子で断ち切られて、興味がまったく別にずれる。

一事が万事この調子で、一日の中で一つの事に集中していられる時間って振り返ってみるとえらい少ないね、そんな断片的な思考の中から、ちょろっとチョイスしてブログ書いてみるっていうのはお手軽ではあるけど、必然性には乏しいな、と感じました。

そんななかでけっこうまとまった時間集中できるのが読書だ、と気付いただけでも吾の中ではブログやってる価値があるな、と思う次第。

 

初期の思惑からは大きくずれてきたけど持続しているのは、思考の整理ができるというのが大きいです。ちょっとした時間を割いて、今日は何を考えていたか、というふうに振り返る習慣ができたのはけっこう気分がいいです。

 

ブログやってなければ 振り返ってみて「今日は書くほどのことがないよな」と気付くこともなかったわけだし。

逆にやってなかった頃は書き留めておいて思考をスッキリさせておいたほうが良かったことも、そのままスルーしてたんだと思うと、もったいないなと今では思う。

 

 

つねに書くべきことのある毎日を送っているわけでもないけれども、

「書くことないかな」という形で一日の終わりに自分の思考を遡れるようになった葉大きな利益だと思います。

それにただキーボードを叩いて文章を書き連ねるだけでも、アタマがほんの少しだけスッキリするような感覚がある。この感覚は実際に始めるまでは分からなかったけど、なかなか心地よいので、だんだん駄文が長くなってる気がする。

以前「推敲して削るのがもったいない」って書いたことがあったけど、それ以上に「ただ書くのが面白い」っていう面はあるな、と最近は思い始めました。

 

今日書いてるこれだって、「中身はない」のに以前より文章はだいぶ長くなってしまってるし。

今思うと文章の練習を始めるのはちょっと早かったのかもしれない。

あれは文章を書くのが好きな人・どうしても書かざるを得ない人向けのテキストだったんではなかろうか?

ようやく書くことにも馴れてきたし(内容はともかく)、駄文を書き連ねるだけじゃ飽き足らなくなってから、またテキスト洗練の練習にチャレンジしてみたいです。

一期一会。

この記事を読んだ後、どれくらい他人のことを知ってるのかな、と考えてみた。

 

「北谷の暴君」と呼ばれた非行少年が 子どもたちを支えるに至ったワケ(湯浅誠) - 個人 - Yahoo!ニュース

信用の蓄積効果って大きいから。更正しても「いつかまたやらかす」ってどこかでみんな警戒を緩めないもんですよ。一緒にやってる人も、はてブの皆さんも。その中で真っ直ぐ実績積み重ねるのは褒められて当然です。

2017/08/12 12:30

 

世の中には嫌な奴がたくさんいて、そいつに絡まれて不快な体験をしたことはもちろん覚えています。そうした先入観があると

「アイツが更正したところで・・・」

という気分になるのもとてもよく分かります。

吾は心がとっても狭いので、昔迷惑を被った相手が心を入れ替えましたよ、って言われても再度付き合う気にはなれない人間です。

世界が狭まるよな、というのは自覚するけれどもかといって付き合うと昔の厭な思い出もぶり返すのでご勘弁、というのが本音。

 

それを踏まえて。

この記事の主人公みたいな

「昔ヤンチャだったけど更正したよ」

って人、じつは案外多いんではないかしら、と思いました。

特に社会人になってからお仕事の付き合いとかあっても

「かつてどんな人だったのか」

ってところまで踏み込むほどに深く付き合う人っていないので(吾の場合)、

今現在の時点で嫌な人だったり、不誠実な人だったりしないかぎり、気にならないんですよね。

そしてもしも「昔ヤンチャだった」って来歴が発覚したとしても

「今めんどくさいことにならなければいいや」

「恫喝とか途中で仕事投げるとかろくでもないことがなければいい」

「じっさいそういうことないし、付き合いのある間だけ大人しいだけでも十分」

って思ってしまう。

 

「アイツはいつかやらかす」

っていう先入観は過去に酷い目にあった人たちからすれば当然の感情で、警戒を緩めないのも当たり前だと思います。ヤンチャ上がりがそこにケチつけるのはお門違い。

でもって自分から「昔ヤンチャしてたぜ」って言っちゃう人に対して警戒するのも分かるんだけど、特に実害を被った経緯があるのでなければもっとおおらかになってもいいんじゃないかなぁ、って感じました。

というか、アレですよ。

「アイツはいつかやらかす」っていう先入観が呪いになっちゃうような気がする。

「どうせお前はいつかちんぴらなヤンチャに戻っちゃうんだろう?」

って構えで接すると、向こうも

「ああそうさ俺はちんぴらさ」

って居直りかねないと思うんです。そもそも元はヤンチャだったのだから、まじめな奴がそっち側に行くよりもハードルは低いし、わざわざその背中を押してやることはないだろうと。背中を押してちんぴらヤンチャ道へ復帰された結果、実害を被ることになるのは自分なんだし、自分で自分の首〆るようなもんです。

 

元ヤンチャと深く付き合うことになる・・・というのだったらまた別でしょうが、ほとんどの人間関係なんてその場その場でしょう。

今現在を上手く乗り越えられるのであれば、あえて刺激せずに上っ面で付き合っておけばいいじゃないの・・・などと考えるのはちょっと薄情ですかね?

けど出会う人いちいち来歴とか過去を知って

「こいつはこう動くかもしれない」

「過去がこうだったんだから裏切るかもしれない」

みたいに考えるのはストレス負荷高すぎないかな・・・?

 

ああもう。

元ヤンチャの人が「元ヤンチャだったんだぜ」みたいに告白してこなければ、こういう負荷もないのに。

・・・けど元ヤンチャの人が更正しました、みたいな話を好き好んで読んじゃったのは自分だよなぁ、とモヤモヤする。

 

けっきょく自分自身が知らず知らずのうちにこういうドラマを選好してるってことなのかもしれない。

まじめな人がまじめに頑張ってる・・・そんなストーリーだと平坦で面白くないと感じていて、邪から正へと復帰した奴がまた邪へ戻る、その起伏のある話を消費したいだけ、ってのがあんがい自分では意識していない本音なのかも。

 

つらつら考えてるうちに思いがけず自分のダークサイドを覗き込んでしまった気分。

こういうダメな嗜好を押さえ込むためにも、元ヤンチャが更正していることを好意的に受け止めるように意識していきたいですね。

こんな夢を見た。

夢を見ている途中で、「これは夢を見ているな」と気づくことがある。
そうすると夢を勝手に操りはじめる癖があって、今日はそれがわりとうまくいった気がするのであわててメモを取る。

 

夢の中で、学生時代に戻っていた。

 

「これは夢だな」って気づいたのは自分の体から魂になって浮かび上がって、教室の天井を突き抜けて透き通ってたから。そうして浮かんでると、ちょうど胸のあたり(下から見上げたら教室の天井裏の高さ1mくらい?)の高さに紐が何本か見えてたんですね。教室の天井の端から端に延びるみたいな格好で、全部てんでバラバラな方向に向けて伸びてるんだけど、それに絵馬みたいにぶら下がってる札のすぐ下に、実際に人間がいるのが見えるというね。
紐どうしが何本か交差して、札がちょっと密集してるような場所の下を見下ろしてみたら、じっさいに友達が何人かだべってる、という具合。

お、これはおもしろいやん、ってこの辺で夢を操作できることに気づいて紐をおそるおそるいじってみます。
紐を摘んで持ち上げたり、引き下げたりして傾斜をつけると、紐に掛かってる札がするするって滑って動くんですね。
それがそのまま札の下の人間の行動に反映するんじゃなくて、ちょっと時間差で動く感じ。
そういう紐いじりで、札を一カ所に集めてみたら、その下で、それぞれの札に対応する普段は接点のないであろうキャラたちが

 

「なんで俺たちはこうして集まっているのか?」

 

って不思議そうにしているのをみるのが楽しい。

 

ここで再現されてるクラスは自分が過去に通った学校とかではなくて、いかにもありそうなフィクションのクラス。クラス内でのキャラ分け、階層分けみたいなのが割と戯画的にはっきりしてる。

さらに弄ったらどうなるんだろう、という事で

幽体離脱して教室の一番後ろでぼんやりしてるはずの自分のリアル身体」という設定を解除。完全に天井裏の、下からは不可視の存在になって教室内を見下ろしながら、何本も交差する紐をまたぎながら、天井裏を歩く。
またぐときには胸の前だった紐の高さが、脛よりも下になるんだから夢って便利だなぁ

そうこうして遊んでるうちに、紐のあげさげだけじゃなくて紐にぶら下がってる札を取り外して、一本の紐にまとめることによっても、足下のクラスの群を作れることが判明。

何個かグループをそうやって作ったあと、誰のひもか確認もせずに、ちょうど手近にあった紐にこれまた誰の札かも分からないのを10枚くらい集めて、紐の端っこを握って教室の隅に向けて思い切り傾斜をつけてのばす。
こういうときも、夢だと空に浮いて紐を伸ばすことができるので便利。

 

ところが。

 

勢いよく傾斜のついた紐を滑り落ちる札だったけど、途中で紐の手応えがなくなっちゃった。見ればちょうど傾斜のついた紐の真ん中あたりで紐がちぎれてるじゃないの。

引っ張りすぎたんだね。
ちぎれたところからバラバラと床(下から見たら教室の天井の裏側に当たる部分)に向かって落ちていく札。慌てて拾い集めようとするんだけど、札は床に吸い込まれるようにして消えていく。
握っている紐もそう。
張力を失った紐は、端っこが下に向かってだらりと垂れ下がるんだけど、床に触れた先からどんどん消えていく。
それに気づいて手の中の紐を持ち上げてみたら、手の中の分とあわせて1mくらいの長さを残して跡形もなく消えている。傾斜をつけてのばしていたときには10m以上の長さがあったように見えたけど、ほとんど床の下に消え失せてしまった。

消えてしまった札と紐を回収しようと必死で床をまさぐるんだけど、手は床をすり抜けるだけでぜんぜん手応えがない。
これは夢の中でも思い通りに操れないことなんだな・・・と気づいたあたりで覚醒。

 

いつもなら夢だと気づいていても支離滅裂な感じになるのに、今日はけっこう整然とした感じだったので、すっきりした目覚めでした。

 

床下に消えた紐と札の行方が気になるところだけど。

 

こういうところにオチを付けないのが夢の夢らしいところかな、と感じました。

どうも紐はそれぞれのキャラの人生のレールを表してたモノっぽいので、それが消えてしまったキャラのことを考えるとちょっと不憫だし、札もどうやらキャラそのものを象徴しているようなので、それが10枚近く消えたということはなかなか引っかかるけれども・・・これが物語なら、吾は床下に消えた紐と札の行方を追って、探し出して元通りにする。ってクエストが課されるんだろうけど、いかんせん夢だしな。

この話はここでオシマイ、です。

 

夢を続き物のように見られたら面白いんでしょうけど、そこまで都合よくはできてない自分の脳味噌の中途半端な感じにちょっとしょんぼりです。