・・・アナリティカな。うまいこと誤変換しやがって。
どっかで読んだ記憶が引っかかってたので再読してみた。
いや、憶えてた以上にフェイスブック持ち上げてたわ。
時代の空気って怖いな。
あの頃はまだ相応の妥当性、説得力があったんだろうけども、わずか5年ちょいで青臭さと胡散臭さがプラネット・フレーバー。
この筆者がとくべつ熱に浮かされてたとかじゃなくて、時代そのものがそんな感じだったよな、ってしみじみ思いだす。
当時からフェイスブックの危険性を指摘してた人はいたけど、吾はガチこっち側の認識(フェイスブックって素敵やん)だった。
殴りたい。
んで、これ無理にフェイスブックにつなげて書かなかったら、今でも「読むに耐える」ブツだったんだろうなって思いつつページまくりながら一揆契状のことを想像してた。
この本だとたがいに接触できないヒトとヒトの間を媒介する存在としてフェイスブックっていいよね、って感じで
同じく顔を直接合わせるわけではない相互に交換する一揆契状について言及してるわけだけども。
目の前で血判押して間違いないやで、って交わし合うのを見届ける使者に対するのと同じ信頼を、個人情報を陰に陽にブッコ抜いて売りさばくことで商売やってるフェイスブックに与えてる(与えてた)ってのはなかなか怖い話やな、と。
ある一揆を交わすサムライ同士の面識はなくとも、互いに一揆契状を託す使者の眼力についてはそれぞれ信頼をおいているはずなんだよな。
主の命に従って使者が、一揆契状を届ける。
その時に相手の顔色を読んだり、血判を押す時の居住まいから
「コイツは信頼できるかどうか」を吟味したうえで、それを主に伝えるとかそういう重要なメッセンジャーの役をやってるわけだ。
お互いに顔を合わせないまま、秘密同盟の一揆契状を交わすことだってあるわけだから、この使者に寄せる信頼ってのはそうとう大きなもの、重いものだったと考える。
で翻ってフェイスブック。
そりゃ知らない者同士がつながるって面ではよろしいツールかとは思うよ。
けど中世の人たちがさ、一揆契状を取り交わす時に、ヒトとヒトとの間を取り持ったそれぞれの使者に伍するほどの全幅の信頼をおけるかっつーと?
よくよく考えるとかなり疑問なんでございます。
本書ではヒトとヒトとのつながりとしての一揆を重視したスタンスなんだけど
そこから「フェイスブックを介した」ヒトとヒトとのつながりを持ち上げたのは拙かったかな、と。
すごい後出しジャンケンだけどね。
思えば素朴な時代だったんだな。
フェイスブックがただ善意のみで(多少の稼ぎは懐に入れつつ)、ヒトとヒトの交流を促進しているんだ、という夢想を屈託なく信じることのできた時代。
そういう時代の空気が濃厚でちょっとクラクラする再読でした。
人間ってホント愚かだな。
ケンブリッジ・アナリティカとともにフェイスブックが仕掛けた社会への打撃を見た後だと、よくもまあここまで無邪気に信じていられたもんだと思う。
後悔はいつでも先に立たないし、役にも立たない。
何時ものことだが、終わってから己の馬鹿さ加減を思い知らされるのは辛い。