afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

くもりなき眼が欲しい

降るような、降らないような雰囲気。
昼間の太陽で焼けたアスファルトが雨で冷める時のにおいは好き。
何だかくせになる。
ただ降り方が中途半端だと、夜でもすぐに乾いて蒸し暑さが増すので中途半端に降るのは勘弁。

 

 

ウヨるのは誇りが無いから

誇りというより、周りへの愛着の実感とかがないんじゃないかなって思う。大きな理念に傾きがちな人は、右も左も間近の他人を見失いがちな傾向があると思います。誇りはないわけじゃないと思いますよ。

2017/07/24 09:49

 

このエントリ読んで思ったんだけど、そもそも右翼でも左翼でも宗教でも原理主義でも、おっきな概念に絡めとられるのって、身近なところに二項対立するロールモデルがなかった子供たちが多いんじゃないかしら?
現在の潮流としてネット右翼オルト・ライト? といった傾向が強いっていうのはひとまずお措いといて、極論への傾倒には一定のパターンがあると思うんです。
んで、近しかった人や知己のある人たちのことを思い返せば、どんなおっきな概念でもいいけど、嵌まり込むときにまず現状への不満からスタートしてて、その現状から逃避する手段・現状を否定する手段として思想やら信仰やらに入っていってる印象があります。
現在、右翼がより選好されてるのには誇りの有無はあんまり関係ないような気がする。
端的に言うと、だいたい極論に走るのって、子供にとって親、ってか身近な大人が弱すぎるか、強すぎるか・・・なんですよね。

・親が弱すぎて、そのふがいなさに腹が立つ → 反対概念のほうに傾く
・親が強すぎて、不満を漏らすことすら困難である → 反対概念のほうに傾く

大雑把にこのパターンだったな、というのを記憶しています。

 

・親が弱すぎて、そのふがいなさに腹が立つ → 反対概念のほうに傾く
この場合、子供を抑えつけてる親の対抗勢力として、子供でも捉えやすいハッキリとした敵が居ればそれに依存することも出来ると思うんですが、親が弱すぎると全方位に負けすぎてて、いったいどれが敵だか、子供にはわからなくなってるような感じ。
そこでひとまず勝ち馬っぽい一番おっきい概念に張る、というイメージです。
最初から一番の勝ち馬に賭けるというのではなくて、ひとまず親を叩きつつ同時に自分を引っ張り上げてくれそうな概念に乗っかるのを繰り返してるうちに一番強いのにたどり着くような。
親が現実において弱すぎるにも拘らず、方針をまったく変更しないまま一つの思想傾向に凝り固まってると
「親父バカじゃないの? もっと上手いことやってる奴居るじゃん!!!」 って子供は逆に流れちゃうの。
現世利益を現実に与えてくれない思想なり信条なりを持って生きてる親と心中するのはごめんだ、ってのはあるけど、じゃあ具体的にどういう思想信条が現世利益をもたらすのか、周りにハッキリと具現化している人がいるか、というとそうでもない。
強すぎても弱すぎてもそうだけど、親の社会が狭いと子供の視野に入ってくる大人のパターンも広がりに欠けるので、具体的に「こういう大人になればいいんだ」と思えるロールモデルが見出せない。
だから一足飛びに親とは反対概念 かつ 現世利益を約束してくれそうな概念 に傾倒してしまうんじゃないかなって。

 

一方で

 

・親が強すぎて、不満を漏らすことすら困難である → 反対概念のほうに傾く
の場合は、親があまりにも子供に対して抑圧的で、反抗できない専制君主のように子供の挙動を全てにわたって支配してる・・・ぐらいの勢いのご家族に多かったイメージ。
親があまりにも無謬の全能神として振舞いすぎてて、中途半端なリアル大人だとロールモデルとして捉えられないっぽい。
中途半端っていってもごく平凡な、ときどき間違いも犯すけど、善良な普通の大人なんだけど、無謬の親を持ってる子供から見れば頼りにならない。
ときどき子供は数少ない周りの大人を見て、「こういう大人いいな」って思ったりもするけど、親と違って無謬ではないわけだから、親にとってはぶっ叩いてOKの人。
「そんな者に憧れたり目指したり尊敬したりするお前は欠陥品である」って子供全否定もOK。
こういうご家庭でそのままおっきくなることもできるみたいですが、まあ子供も人格はあるので・・・
無謬なる親に対抗するには無謬なる概念に帰依するのが一番なりよ! ってある日開眼したりする。
そうなると、子供にとっては全能神として振舞ってきた親もしょせん生身の人間、無謬の概念や思想から見れば普段の振る舞いに粗があちこち見受けられるようになる。
「なんだ、俺を抑えつけてた割にはこいつも所詮、たいしたことのない者ではないか」って看破した子供は、今まで抑圧してた親を打倒するのに大きな威力を発揮した概念にさらに深く帰依するようになる・・・みたいな感じ。


極端な方向へ流れていく根っこって、どっちも似たようなもんだなぁって思います。
どうも上手く言えないんだけど、生身の感触が乏しい。
いま自分を抑えつけている者や周囲が
強くもあり、弱くもあり、賢くもあり、バカでもあり、正しくもあり、邪でもある。っていう、圧倒的とは程遠いモノだって感覚が薄いから
それを打倒するために、克服するために得なければならない力は程々でもかまわないんだよ、ってのを感じられないんじゃないか。

生身の感触があれば、力が逆転した時にあんまり派手に痛めつけても可哀想だし・・・ってうすうす感づくと思うの。

子供のころは親をはじめ大人って圧倒的で万能ですごい感しかない人たちだったけど、長じるにつれて
「そこまで凄くないぞ?」と思いつつ「侮るのも違うよな」という距離感が出てくるもんではないかな・・・と。

 

そういう経験に恵まれずに・・・抑えつけてくるもの(親や周囲や現実)を「全否定も全肯定も出来ないよく分からない者」と見定めることが出来ずに

完全に侮っていいもの とか 潰さなくちゃいけない巨悪 っていう風に認識しちゃうから、それらと対峙する時に何らかの思想との一体感を獲得する必要になるんじゃないか・・・?

んで、たまたま今の流行がネット右翼オルト・ライトなんでは・・・?
てのが今のところの結論でしょうか。

学生運動時代にネッツがあったらどんな感じの勢いだったのかしら、ってちょっと興味があります。今のネット右翼的な熱狂があの頃ネットがあったら・・・なのかな?

 

エントリが指摘してるところに戻ると「誇りの有無」が、おっきな概念への傾倒性を左右してるとは思えないのです。
自分を抑えつけてるものへの反抗としてネット右翼も左翼も信仰も表出してるように見える。
現在はネット右翼が特に強く見えるけれども、それは抑えつけてるものの多数派が偶々レフティーな感じなのが多かったからではないかしら? と。
抑えつけるものへの直接の抵抗ではなく、両極とも一気に「おっきなもの」を敵に回すものだから、やたらと厄介に見えるんではないかしら、と。
おっきなものを敵に回すものだから、個別具体的なそれぞれの事情は捨て置いて団結できるではないか?
(思想にのめりこんでる人に共通して感じる、「浮世離れしてる感」の根源はこのあたりかも)
中でも、ネット右翼などが強烈に一体的な思想を持っているように見えるのは、歴史が浅い分、思想の細分化がまだ進んでいないからでは? と妄想。
一方で左翼がやや弱めに見えるのは、昔は学生運動の内部紛争もあったし? 思想の分化が進んでる分、可視化できる組織の大きさが小さいのでは? と。

あとそもそもネット右翼やそれに類するものの本当の規模って捉えきれてるのか、過剰に評価している面もあるんじゃないのか、とか。

※この辺は連想がとめどなく溢れて頭がゴチャゴチャするし、まとめ切れないのでただの思い込みです。

 

ん・・・けど現状を肯定できないところに誇りなど持ちようもないか。誇りの有無が極論への傾斜を左右するというのはありえなくもないか?
ここまで書いてて自信がなくなってきた。
しかし、現状ネット右翼という極論への傾斜が強いのは誇りの有無で説明できるものではない気がする。
もっと即物的な、肯定できない現状を破壊するために手っ取り早く勝ち馬に乗っただけ、っていう方がより実感には近い気がする。
あくまでごくごく狭い自分の世間から判断するかぎり、だけどね。その尻の軽さを「誇りがない」というのなら、そうかもしれないけど・・・自分で書いてて何だかもやもやしてきた。

やはり慣れないことはするべきではない。しかしいい加減まとめておかないとそれはそれで心の隅に引っかかるし、いい機会だから書いて吐き出しておく。

 

 

ま、どうせいずれこの認識も変わるだろうけど、とりあえず現時点では
両極とももうちょっと自分の周りや、地歩を固めてみると違う世界が見えてくるかもしれないぞ、って思いました。

 


・・・できればポリティックであるよりもポエティックでありたいと思っているのだが、こういうネタの方が筆が滑りまくるのは無意識下で自分もいろいろムキムキしてんのかなって思う。もっと心にゆとりを持とう。ベクトルを自分に向けよう。

お肉食べたい。

夜を往く者

 気持ちが落っこちたときはこれを読む。

ソリッド・ファイター[完全版]

ソリッド・ファイター[完全版]

 

 

これもあんまり落ち着いて読むことのできない本なんですよね。

いろいろ思い入れがありすぎて。

いっぺん文庫で出したときには不人気だったらしくサラリと打ち切りになったのが

熱意が実ったのか酔狂なのか、その事情は推し量れないけれども完結までキッチリしたのが「グッズ」として販売されたのです。

(だからAmazonのカテゴリーも「本」ではなく「おもちゃ・ホビー」になってる)

 

もうラノベは読まなくなって久しくなってたけど、これが出るというのを見て

初めて電撃のラノベ月刊誌買っちゃった。

最初のうちは限定販売ということで、月刊誌に購入の応募用紙がくっついてたんだと記憶。

それ以前にアニメグッズ屋さんでも限定販売してたらしいのですが、そっちは情報入手するのが遅くて買いに行ったけど品切れ。

で仕方なく・・・となってしばらく待たされたけど、ようやく読めたときはすごく感動した。

これなんで完結しなかったのか本気で不思議に思えるくらい。

何がどう面白くなくて受けなかったのかまったく分からない。

なんで続きすぐに出さなかったの!!

読了後真っ先に浮かんだ感想はこんな感じでした。

完全版が出た頃は3D格闘ゲームはやや衰退してた・・・と思う。

それだけになんで全盛期のちょうどいいときに出してなかったのか、と悔やまれる内容。

一方で、齧るほども格ゲー触ってなかった自分でもすんなりのめり込めたんだからこれは別にタイミングを選ぶような作品じゃないのか? とも思ったり。

 

しかしいつ読んでも面白い・・・ケンパのくだりなんかは蛇足だろイラねえだろ、って思ってた頃もあったけど、何度か読み返してるうちにOKな感じになってきた。

今じゃもうまるごと大好きです。

昔も好きだったけど、それとはまたちょっと違う感じのしみじみとしたいいよなぁ、って感じがする。

ポリゴンのどこまでも青い空は最初の頃は興奮を励起する感じだったけども、今はなんだろう、またここに帰って来たぞ、みたいな懐かしさとかも感じる。

話のスジもオチもちゃんと記憶してるのに、それでもまた読みたくなるから不思議なものです。

 

 

悪い読み方

週末なので本を読む。小人閑居して悪事をなす。 

暑いですね。

 

「学力」の経済学

「学力」の経済学

 

 

図書館で借りてきた。

内容はごく差障りのないものだったと思いましたが、読み方が拙かったな、と思いましたよ。ダメな読み方をするときって予断が大きいんですよね、吾の場合。

後書きを最初に読んじゃったのが致命的だった。マジでダメだった。

個人的に大嫌いすぎる学者の名前が献辞に上げられてたので・・・偏見スイッチが入ったまま固まってしまいました。

こうなるともう、内容の是非を云々できる視点は消失してしまってて、揚げ足取りに終始してしまうんですよね。とても非生産的で徒労のような読書になります。

 

 

cocolog-nifty.hatenablog.com

 

よろしきもの、キラッと輝く破片のようなものを文章から拾い出す読上手、とは対極にある姿勢ですね。

読みながら浮かんでくる連想の不毛さにウンザリしながらも、それだけ吾がイラついているんだなぁ、というのはあらためて自覚できたので良しとします。

吾ながらちょっと気にしすぎだと思う。

 

どのへんが引っかかったのかというと、はっきり言って、本の内容完全に無関係。

読書感想にもならないただの連想になります。

 

教育政策にもエビデンスを~ってとても妥当なこと言ってるんですけどまぁ・・・

中立の第3者機関というやつへの言及のところで

「イヤあんた竹○○蔵がらみの人ですやろ?」

「中立公正を標榜しつつその中身がアレな実績積み上げてきた人でっしゃろ?」

という偏見スイッチがぴくぴく反応してしまうわけです。

 

話がちょっと飛んでしまいますが、今話題の加計騒動(問題というほどではないような気がする)。取り沙汰されてるけど要は今までの文部行政によるえこひいきのありかた(参入障壁)は許されないので、国家戦略特区という政治主導の新型えこひいきに切り替えようってことなんだと思うんですよ。

いい悪いは措いといて、参入を差配する主体が文部科学省→官邸に切り替わっていくだけの話。

政府の方が公平性が担保できるよ、って思うポジの人は問題ナッシングというし、政府はいまいち信頼できんよ、って思うポジの人は文部科学省というお役所に任せておけばいいんだよ、って言い出して揉めてる(ように見える)。

※ 吾はどちらかというと信頼できんよ、というポジだけど、じゃあ文部科学省に任せておけばいいかって言うとそうでもないよな、という鵺ポジでお願いします。

 

そこはいいんです(よくないけど)。

んで、加計騒動では変わるえこひいきの関係が取り沙汰されるのに、労働規制緩和を推進する国家戦略特区でパソナがおっきく事業をゲットできてるのには、ケチがあんまり付かないのは不思議だよな、納得がいかないよな・・・と感じるわけです。

 

えこひいきのあり方を切り替えるに際して

「この政策は公明正大・中立の民間議員の諮問によって担保されてます」

って喧伝されてる割に、切り替えた新たな差配の主体に民間議員が座ってたりする。

たとえば、パソナの○中とか。

名立たる人派はぜんぶ入ってるんだから、パソナ落とすほうがおかしいぞってのもあるとは思いますが、そこは心情的に、こういうのってそうとう卑怯じゃないか、第三者という皮は被ってるけど思いっきりそこから利益を得ているんじゃね? っていう偏見がどうしても拭えないわけです。

 

 

 

 

 

・・・本当に本の内容関係のないところに引っかかってしまいました。

ダメだな。こういう読まれ方をすると本も不幸だね、って思います。

反省を込めて内容に触れると、非認知能力の伸ばし方についての尺が短すぎるのは残念だと思いました。

ざっと読んだかぎり、非認知能力の強化の方は、大学進学などの高等教育の生涯収入における効果よりも、射程が長そう、潰しが利きそうに見えるんですよね。

今は大卒というレアキャラであれば収入が伸びるというハッキリした相関があるんでいいけど、大卒がレアキャラでなくなってしまうような将来においても、大卒というラベルによって収入の伸びは担保されるのかというと、そこは経済学でも微妙なところではないかしら、という疑問が湧いたり。

そうなるとより普遍的に効果がありそうな、幼少期から継続して非認知能力を伸ばすという教育の重要性のほうが高まってくるんではないかと思いました。

・高等教育による収入の伸びで生き易くなる

・非認知能力を伸ばして生き易くなる

だと、より遠い将来にまで効果が及びそうなのは後者かな、という感じがするんだけどこういう「将来より長く使えそうな教育はどっちか」の比較も研究の対象になってたりするのかしら? だとしたらちょっと読んでみたい。

 

 

 

最後に。

P175、「小さく始めて大きく育てる」

これも印象が変わる言葉だな、って感慨深かったです。

高度プロフェッショナル制度の元ネタ、ホワイトカラーエグザンプション導入しようとしたくらいの時に

まずは制約ガチガチでスタート

徐々に省令・政令・通達で適用範囲を広げていけばええんや!

いちいち国会とおさんでええしな!

(希望としては、年収400万くらいの労働者まで適用したいね)

ってのを

「小さくはじめて大きく育てる」って表現してた識者がいたな・・・てのを思い出しました。

 

 

次はもうちょっと気持ちが落ち着いてから読みたいと思いました。

もしくは同ジャンルでも竹○繋がりじゃない人の本。

・・・けど竹○って影響力はすごいみたいだしなぁ、息のかかってない学者さん探すほうが大変かもしれない。竹○が利益相反に見えることをやってもなんらお咎めナシなのは、それだけ権勢が圧倒的だということの証明なのかもしれないですね。