afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

アリーテ姫の冒険

 アリーテ姫を見た後、いろいろとウェブ上で感想を漁ってみました。

原作を知る皆様からはおおむね不評のご様子。

アリーテ姫の冒険

アリーテ姫の冒険

 

 まったく原作を知らなかったので、それなりに・・・もといかなり面白いと思ったのですが、評判があまりよろしくないのはちょっとした驚きがあります。

 

afurikamaimai.hatenablog.com

 

というわけで、図書館で借りてまいりました。「アリーテ姫の冒険」

図書館って古い本でもすぐに手に取る事ができてとても便利ですね。

あと童話なのですぐに読めたのもよかった。

 

 

・・・・・・・うん。

この原作読んだ後だと評価が辛くなるのは納得です。

映画とまったく内容が変わってる。

いやこの場合は映画のほうが思いっきり内容を改変してるのか。これは原作ファンの人が「アリーテ姫の冒険、映画化や!!」ってウキウキしながら劇場行ったら

「なんやこれ・・・なんやこれ!!!」

ってなる。間違いない。

 

ただ映画のほうを先に見ちゃった視点から見ると、たぶん映画のほうが出来がいいんじゃないかなぁ、という感想を持ちました。

フェミニズム的な視点とかは抜きにして、話としてのカタルシスは映画のほうが上だと思うんです。クエストの難度が、映画のほうがずっとハードルが高い分、そこを超えた時の達成感が大きいと思う。

映画ではアリーテ姫は自分の内心+ボックスの城の地下牢に二重に幽閉されてしまうんだけれど、原作ではアリーテ姫内心の自由までは束縛されてないわけですね。心の中で思ったとおりに自分の思い通りに動ける。地下牢の中とはいえ、これはストレスを軽減する意味でかなり大きいです。

一方で映画のほうのアリーテ姫は、ずいぶんと活動的だったのにボックスの魔法でかわいらしい外見に変えられたうえ、その活発な精神までおしとやかな外見に合わせて表に出てこないように押し込められてしまう始末。絶望的ですね。

だから地下牢では心の中に閉じ込められたアリーテ姫が拒絶するにも拘らず、表に現れているおしとやかなアリーテ姫はせっかくの魔法の指輪で些細な願いをかなえてしまう。この辺の中盤の展望の開けなさからの脱出劇、のあたりの作劇は映画のほうが上だな、と思いました。

童話にそういうことを求めるのも酷なのかな、とも思いますが、それ以外にもアンプルがアリーテ姫とボックスたちの食事に明確な格差をつけてボックスたちの足を引っ張っていた~~(原作)とか、それは別になくてもよろしいのではないですか? という疑問の湧く設定がついてたり。

アンプルが味方なんだぞ、ってのを印象づけるのにはアリーテ姫がクリームたくさんかけたイチゴに対して、ボックスたちはネズミ煮込みシチュー、ってするのも効果的かもしれないけど、そこまでするのはやりすぎじゃないかなと。

これは映画版のボックスがボックスなりに抗いようのない事情でああいう風になってしまった・・・ってのを見てたからそう思ったのかもしれません。ボックスが「ただの悪い魔法使い」という設定の枠に収まってたら「アリ」な扱いなのかな、と。

 

全般に原作の方はアリーテ姫を活躍させるために、それ以外の登場人物が書割みたいな感じですごく表面的な感じになっているな、と感じました。

わずか70Pに満たない童話で人物の深みを求めてどうする・・・とも思いますが、原作葉の感想を読むかぎりは、原作もそうとう面白いのだろうと思ってただけに拍子抜け。

けど原作派の人たちからすれば

人工衛星とかどこに書いてあるんだ!!!!!!!!」

ってなるよなぁ、ってのも納得でした。

 

いやホントに、映画だけしか見てない人 or 原作しか読んでない人

とかは両方比べてみると面白いと思います。ぜんぜん違う。どちらかに思い入れがあると腹立つかもしれないけど、その辺を了解した上で比較してみるとなかなか面白いと思いますよ。

正直途中まで、「これは本当に映画「アリーテ姫」の原作なんだろうか?」って思いながら読んでました。映画に出てこない家庭教師とか出てくるし。

アンプルが出てきたあたりで「よかったこれ原作だわ、登場人物の名前だいたい一緒だし」って安心しました。

それくらいには映画とかけ離れていますので、映画見たあと一読するのもお薦めです。

城山三郎

通勤途中でちょこちょこ読んでたのを読み終わる。

中短編なので区切りがつきやすいのがいい。

文章も読みやすくてとてもよろしい。 

 

 

いちばん印象に残ったのはやはり、「一歩の距離 小説予科練」でしょうか。

最後に収録されてる中篇なんですが、上尾・塩月・小手川・英 4人の少年を軸に展開される戦争末期の海軍の様子が何ともやりきれない。

戦争で運命を翻弄されるってのはまあ話としてはよくあることなんでしょうけど、それにしたってこの少年たちの扱いの軽さといったら・・・やりきれないですね。

飛行機に乗りたい人志願してください! → 残念、飛行機はありません!!

というのが全員平等に与えられた条件ならまあしょうがない、って思うけど、ここでまず道が分岐します。

飛行気乗りになりたいと思い、じっさいに飛行機のある部隊に配属された上尾。

一方で他の3人は滑走路はあるけど飛行機のない部隊に配属されます。

この時点で上尾と他の3人の飛行機への適性の差なんてまったくないんですよ。

運と偶然でまったくルートが異なってしまう。

「飛行機乗りになりたい奴、集まれ!!」って募集しておいて、この有り様。

戦争中とはいえ酷い扱いだな、って思ったのが序盤ですが、

「飛行機なくても散華することには変わりがないんだ」って達観してるのが英。

英少年は他の3人と比べると戦争に対してけっこう超然としていて、一人だけ特攻で戦死してるんですが、これがまた考えさせられる。少年らしい真っ直ぐさで「海軍の汚濁」に染まる前に清いままで死んでやれ、という覚悟で生きて、そして死ぬんですがそれでも途中、塩月にかけられた言葉に引っかかって戸惑いを見せてるシーンがあるんですよね。

それに英が自分の中でどんな答えを出したのか、それが分からないまま英は物語から退場してしまうのがまた想像を掻き立てる。語り方が上手いなぁと感じました。

 

でも作中で一番、印象深いのは臆病者の小手川です。

小手川自身の境遇もそうですが、小手川を軸に描かれる海軍内部の矛盾とか非人道性とかがきつい。

海軍内部のリンチや制裁に慣れて行く塩月に対して、小手川は何時までたってもそうした体罰に怯えて過ごしています。そんな小手川が特攻志願を募ったときに見せた勇気(というか勢い)に塩月は大変な気後れを感じている。タイトルの「一歩の距離」は、この時特攻志願に一歩踏み出したものと、その場でとどまった者との差を示しています。

特攻志願後の小手川のエピソードはちょっと辛過ぎて、ここまで酷い話はフィクションでもやっちゃアカンだろ、って気持ちになります。本当に気持ちが沈む。

と同時に、海軍という組織に対して疑問と憤懣がふつふつと沸いてきますね。

フィクションではあるけど、一面で真実を伝えてるところもあるんでしょう・・・というか小手川の最後に関する処理が、「今でもありそうだな」って思わせる隠蔽処理なのがキツイです。

最悪なのがその隠蔽を戦友たち、つまり塩月や英たちに加担させている場面。大人たちが子供にそういうことをやらせるというのにクラクラします。

けっきょく敗戦まで生き残ったのは上尾と塩月の二人なんですが、この二人にしても運命に翻弄されっぱなしで哀れでなりません。

全般に救いのない話ですが、時々に挿入される上尾の飛行中に見た風景や、英の回想する故郷のシーンの描写が綺麗で、これがまた少年たちの境遇との落差が激しくて印象的。

読後、作中の大人たちと自分を照らし合わせて非常にやるせない気分にも、情けない気分にもなる小説ですが、あまりにも酷い大人すぎて、こんな大人になっちゃダメだぞ、って自らを奮い立たせてくれる面もあります。

お奨めしたい作品です。

オバケは怖い?

今週のお題「ちょっとコワい話」

オバケって昔はすごく怖かったのだけど、いまはそうでもない。

怖くなくなる何がしかのきっかけがあったのか、となるとそれも思い出せない。

中学の頃まではすごい怖かったんですよ。

その頃、いちばん怖いなって思ってた怪談が

 

「ある男が呪いをかけられる。

 三日間無事に過ごせば呪いからは解放されるので、家族は男を家の中の安全な部屋にかくまう。

 そうして三日が過ぎるのを待つけど、男は退屈。

 それでも何とか我慢して三日目の朝。

 日が部屋の窓から差し込んでくる。

 やれやれこれで一安心、と思って窓を開けたら外は真っ暗。

 まだ三日目は明けておらず、男はたちまち窓の外の化け物に引き込まれてしまいましたとさ。」

 

という話でした。

語りも上手かったのか、ちょうど波長があったのか、怖くてしょうがなかった。

夜はしばらく部屋の窓見ないようにしてたし、夜が明けて明るくなっても、窓を開けられなかったですね。

不思議な事に、玄関から外に出るのは平気で、それで外に出てたしかに朝になってて、窓の外に何も怪しい者は居ないのを確認してほっとしてから部屋に戻って窓を開ける・・・という手間をかけてました。

 

それぐらい怖くてたまらなかったのに、一体いつの間に平気になってしまったのか。不思議なもんです。覚えてないくらいだから、ホントに些細な理由で克服したんだろうけど、コワい話そのものよりも、いつの間にかそれを忘れてた、ってことの方がちょっとコワいかもしれない、と感じました。

コワい話聞いて日々の行動も変えてしまうほどビビッてたのに、自分でも知らないうちにそれが克服できている、というのは嬉しいんだけど、じゃあお前あんだけビビッてたのは何だったんだ? という疑問が。

 

幽霊の正体見たり枯れ尾花

ってのはビビッてたモノの原因・正体が分かってすっきり一安心ってことですよね。そういうスッキリ感もまったくないうちにうやむやになってコワさが消える事のほうが、何だかぞわぞわするな、って感じました。

結局自分は何にビビッてたのか、何を克服したのか。

夜の闇の底に潜む何かにビビッてたんだとは思うが、その「何か」をハッキリさせないまま克服した現在。実は克服した気になってるだけなんじゃないの? という不安がちょっとだけ湧きました。

何を克服したのか分かってない以上、いつかまた不意に、「夜の窓が見られない」ってぶり返すかもしれません。

 

ビビッてたけど正体が分かってスッキリしたよ! みたいなコワい話はカタルシスがあっていいのになぁ。リアルだとこういうなんとも言えない据わりの悪い話になっちゃいます。