afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

固定的人間関係

子連れの熊本市議の話。

賛否両論というか、非難囂々(ネッツ空間では)というか、昨日読んだ本を下敷きに眺めてみるとまたなんだか味わい深い。

いろいろと理屈をつけてぶん殴ってるけど、ぶっちゃけ固定的人間関係、シマウチの人として求められる振る舞いから外れてるからぶん殴られてるんだなぁ、と。

 

人間集団を内と外に分けて世界を判断するときに、

固定的な見方の場合

メンバーは固定されてるし、一挙手一投足が見張られている→糞な振る舞いはできない→よって秩序が保たれる(裏を返せばこれから外れたら懲罰が待ってる)

 

流動的な見方の場合

メンバーは頻繁に出たり入ったりする→いい奴か悪い奴かは判断できない→とりあえず「いい奴」ということで受け入れておく→糞な振る舞いをしたら被害を弁済させるなどして回復させる(懲罰ではなく、損害賠償を求められる)

 

となるので、異分子への対応力という意味では流動的な人間関係の集団のほうが有利。

市議会というのは固定的な人間関係の集団で、そのシマウチのメンバーである以上は求められる「ふさわしい振る舞い」というのが決まっていたのではないか。

そこから逸脱したことで懲罰にも似たバッシングがあちこちから吹き上がっているんではないかと。

とりあえずネッツの反応の激しいところとか「やり方が拙いよ」というタレント弁護士とかの反応は、あらかじめ「シマウチのふさわしい振る舞い」というのが決まっていて、それを逸脱したことへの苦言のように受け止めた。

子連れで議場に出てきた、というのはそれはたしかに驚きではあるけど、ぶん殴っていいレベルにまで吹き上がってるのは「懲罰的」というほかない。

 

いちおう「連れて行っちゃだめ?」ってお伺い立てて「駄目だよ」って言われた後に強行突破してやる!! って解決に結びついたのは素っ頓狂だけど、これ流動的な人間関係の組織だったらこんなにぶっ叩かれるほどの騒動にはならなかったんではないだろうか。

 

てかですね。

完全に個人的な印象に過ぎないんですが、議会って4年に一度くらいは入れ替えがある組織じゃないですか。

毎回まっとうな「枠に収まる」人ばかりが通ってくるもんでもないでしょう。

すさまじくエキセントリックな人も「議員センセイ」としてついうっかり当選してしまいました、ということもあり得ないわけじゃないでしょう。

ドリルでPC破壊したりとか、下着ドロの前科を持ってたりとか、オペラな感じで秘書に暴言吐いたりとか、そういうエキセントリックじゃなくて、拝一刀みたいなマネをしただけじゃないですか。

議場でやっちまったのが拙かったのかもしんないけど、これくらいのアクシデントは前もって想定できなかったのかなぁ、という疑問が湧く。

処分するぞ、と言うのもいいけど、どういう前例に照らして処分するつもりなのやら。

「メンバーらしい振る舞いではない」と切って捨ててはみたものの、その先どうする? がないのがダメ。 見栄切ってみたけどこんな事態はまったく想定していなかったから右往左往してるだけに見える。

想像力乏しすぎんよー。

 

メンバーの振る舞いが確実に想定内に収まるという状況に慣れすぎて、想像を絶する行動に走る人のことを想定しない、というのは固定的人間関係の大いなる欠陥だな、と思った次第。

とりあえず受け入れたうえで、これはNG、って判断したときに原状回復させたのちお引き取り願う流動的な人間関係のほうがスマートな感じ。

 

 

ところで、

「子連れでも職場はOKにすべき」

保育所の定員を拡充してすべての子供を受け入れるべき」

っつーべき論は分かるのだが、熊本市の財政がどこまでその要求を充足させられるのだろう? んで、その際に件の市議さんは、どういう解決を優先するんだろう?

 

自分の子育てに便益的な政策に優先してリソースを割く

or

自分の子育ては措いて、支持者に利便性の高い政策に優先してリソースを割く

 

必ずバッティングすると思うんだよね、予算に限りはあるんだから。

その時、どっちを選ぶのか興味がある。

子育てママの利益代表として議会に陣取る以上、支持者の利便を優先するのか

それとも

自分の子育てを優先するのか。

子育てママという境遇でつながっていても、その求めているサービスの内容はママごとに千差万別なので、どういう解決を目指すのかしら、というのは眺めてみたい。

 

 

みんなで笑って暮らせたらいいのにね。

言葉は正しく使いましょう。

書いてること全部理解できたわけじゃないし、再読しなけりゃいけないなって思うけど、それでも面白かった。

直ちに自分の生活で有用であるとも思えないし、明日使えるムダ知識でもないんだけど、こういう話は好きである。

普段何気なく使っているそれっぽい「バブりワード」

kaetn.hatenablog.com

ブコメで「バズワードでいいじゃん」という指摘があって、それもそうだなと思ったけど、吾は「バブりワード」の響も捨てがたいと思った。

 

その実際の定義ってのを掘っていけるのが面白いというか、それを言い換えたらどうなるのっていうのがね。

 

自由のジレンマを解く (PHP新書)

自由のジレンマを解く (PHP新書)

 

 

固定的人間関係のときの「自己責任」と

流動的人間関係のときの「自己責任」

 

この辺をごっちゃに語ってぐちゃぐちゃの「悪いとこ取り」になっているという指摘はとても腑に落ちた次第。

固定的人間関係の責任の取り方取らせ方は刑事罰的で

流動的人間関係の責任の取り方取らせ方は民事的~~みたいなくだりも面白い。

この著者は言い換えが上手いね。

言い換えが上手いってことは騙す能力が高いという事でもあるので警戒しないといけないのだけど、

「分かったような気分にさせてくれる」という新書の効用としてはレベルが高い気がする。

 

ただ第6章以後の著者本人の考える「自由のジレンマの超え方」の部分ではややその言い換えとか置き換えの納まり具合が微妙かな、とも感じた。

著者にとってもまだこなれてない概念のせいなのか、こちらの理解力がしょぼいのか、たぶん両方のせいだろうけど、前半のするする読める感じはない。

この読みにくいところをキチンと読み下すのには時間がかかりそうなので、ひとまず棚に上げておいて、現時点で気に入ったのは

「喪失による普遍化」よりも「獲得による普遍化」を目指そうよ

っていう著者のスタンスかな。コレは同意する。

 

著者いわく

「喪失による普遍化」というのは

特殊なアイデンティティを剥ぎ取られた普遍化のことで

資本主義の発展によって職業・技能の違い、男女の違い、地域・身分・民族などの違いがみんな剥ぎ取られた単純労働者の「プロレタリアート」が生み出されたことをさしていて、

一方で著者が提示する

「獲得による普遍化」というのは

様々な特殊なアイデンティティを複数並立的に「我が物とする」普遍化のこと・・・らしい。

 

・・・読んでる最中はそこそこ「なるほど」と思ったけどこうして自分で要約してみると何のことだかさっぱり分からんな。

 

誤解を恐れずに要約してみると

産業革命が起こる→機械化で単純労働・大量生産へ移行

そうすると職能・体力などの男女の差その他もろもろの差異が解消の方向へ

庶民がアイデンティティ喪失による普遍化(プロレタリアート化)を果たす。

それぞれの(~~らしさ)を意識しないで済むよう(もっとも、それが達成されるまでの反動はいっぱいある)になるので連帯して境遇の改善に取り組む事ができる

美しい世界へ!!・・・というのがマルクスの見立て。

※ここまでが「喪失による普遍化」の時代?

 

だったんだけども

 

19世紀末、今度は重工業化(第二の産業革命)が起こったおかげで

いったんは単純労働者として普遍化するかに見えた流れが、男性複雑労働力が中心となる労働構造へとシフト

労働が複雑化することで、互いに直接に示し合わせて生産を調整することが難しくなり、その調整機関として経営エリートが、複雑労働に従事する両者を媒介する。

この媒介に必要なのが「モノ≒考え方」(シンボル・記号・シグナル)。

それぞれ異なる複雑化した労働に従事する人々が、その労働や業務に特有の「考え方」を受容する事で、再び階層的・民族的なアイデンティティが復活する。

※ここが良くわからんかった。

要はブルーカラーブルーカラーらしい振る舞い、ホワイトカラーもまたそれっぽい振る舞い、というのが後から作られた、という理解でいいのかしら? んじゃ民族的アイデンティティが復活するとはどういうことなのかしらん?

よってマルクスが言ったようなプロレタリアートの連帯は不可能になる。

 

そして、今起こっているのは著者のいうところの『転換X』

ITやらAIやらグローバルの進展やらで、複雑労働や現行の「モノ≒考え方」が無効化されつつあるので、従来の固定的人間関係がメジャーだった時代から、流動的人間関係がメジャーな時代へと移行しつつある。

現行の固定的人間関係に基づくアイデンティティの破壊という側面を持っているので、抵抗はいっそう激しくなる。ナショナリズムの亢進なんかはその現れの一つ。

しかし、流動的な人間関係がメジャーとなる時代において、固定的人間関係がメジャーだった時代の振る舞いはNG。かといって共同体や民族といった固定的人間関係によって培われたアイデンティティを剥ぎ取るのは弊害が大きすぎる。

絶対至高の価値として一つの共同体から得られる考え方やアイデンティティに依存するのではなく、複数のアイデンティティを同時並立的に「我が物とする」仕方で流動的な人間関係がメジャーとなる時代へ適応していけばいいのでは

この際に並立的に複数共存するアイデンティティ同士の対立を解決するために「統整的理念」とか必要なんではないのかな

※これが、「獲得による普遍化」?

 

という具合に自分の中では理解した。

たぶんだいぶ間違ってると思う。

なんとなくだけど、個人としてできる対処としては、現状で一つの観念にしがみつくのは時代の流れとしてだいぶ危険で、自らの拠って立つところは複数に分けておいたほうがよく、その上でいずれにも偏らず、そうした複数の観念の間の競合や対立を審判する上位概念として「統整的理念」、ぐうの音も出ないほどの正論を掲げておくのが、精神衛生上よろしいのかな、と思った。

 

 

この読み方で合ってるんだろうか?

読んでるうちは「つまりこういうことやろ」っていう風に漠然と理解してたが、こうして書き起こしてみると実は著者の狙いからはだいぶ外れた感想を抱いているような気がしてならない。

まったく「自由」について触れてねーし。

かなりおっきいこと書いてあるのに「個人の生きる指針」程度にまでちっさくしてるし。

 

まあいい。

世に出した以上、どのように読まれようとも覚悟の上であろう(暴論)。

吾はこのように読んだ、ということをここに書きとめておく。

 

 

とりあえず。

「自己責任」というバブりワードで世の中を気って捨てるイケテルブロガーやネッツの匿名にモヤモヤした気分を感じてる貴方、その辺少しスッキリさせたい方におススメです!

ファンタジーとメルヒェン

どういう風に分ければいいんだろう。

どっちも幻想的なお話、という風に大雑把に考えていたけど厳密な区分があるはず。

以前も書いた気がするが、その後きちんと調べていない。

引っかかった後、それをきちんと掘るか否かで人間の出来に差が出るんだろうと思う。

吾は出来の悪い方です。 

 

2050 近未来シミュレーション日本復活

2050 近未来シミュレーション日本復活

 

 これはファンタジーなのか、メルヒェンなのか、しばらく悩んだ。

 

読後感が架空戦記そっくり

なかでも「とにかく日本大逆転」的な素朴な味わいのやつに似てる。

 

御都合主義が過ぎるというのも大きいんだけど、そういう読後感になるっていうことは、すでに自分の中で「没落していく日本」という視点はかなり確立してるんだな、っていうのに気づかされた。

大いにボロ負けた後、歴史を重ねた後の世代から見た「日本大逆転」ファンタジーの消費の仕方と、

まだ見ぬ未来のはずなのに、「日本再生」ファンタジーを消費する仕方が吾の中では一緒。

終わってしまった後、

「ああすればよかったなぁ」

(もっとも、そうしたところで確実にうまくいくという保証もないのだが)

っていうやるせなさを覚えながらお話を消費してしまうあの感じ。

 

架空戦記なんかの場合はまったくの絵空事なので読みながら都合のいい展開があってのめりこんでいても、読後

「けどリアルではバァシー海峡(@山本七平)やらかしてるしな」

って我に返ってむなしさが募る感じが襲ってくる。

それと同じ感触が、この本を読んだ後に感じられた。

 

これから来るであろう近い将来の「バァシー海峡」はなんだろうな。

回避できる気がしないよ。

 

ちょっと長生きして、2050年まで生きられたとして。

その時にもう一度この本を読んだときに吾はいったい何を思うのだろうか。

出来れば多少はこの本の予想が当たっていればいいな、とは思う。

 

・・・余談ながら、作者のメンタルが実にマッチョポジティブで読み進むのが時々つっかえた。

なんだろ、御都合主義であることへの後ろめたさがまったく感じられないの。

この辺の無邪気さはやっぱボロ負けたことのない国の人のメンタルなのかな、ってちょっとズレたことを考えたりした。

 

バカになれ。

そんな一言で前向きになれる気分の夜にお奨めの一冊です。