afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

フラグメンツ。

タイトルに意味はないよ。

ボヘミアンラプソディーのポスターの一部がウェカピポの警備員に似てるなぁ、って思ったのと

いつまでもブログの先頭に「おれはにんげんがきらいです」みたいな記事が上がってるのはどうかと思ったので何か書こうと思ったんだ。

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みんな若いね。

 

で話はがらりと変わりますが、連休以前読んだ本を読み返してた。

これ。

「世の中にはかくも多くの人が居るのだなぁ(詠嘆」という感慨を抱いた時に

そういやこの感覚、どっかで読んだな、って思い出したので再読。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

以前読んだときはあんまり意味が分からなかったんだけど、

今回はちょっとだけ、ほんのちょっとだけどういうことが書いてあったのか分かった気がする。

ふだん知りえない、存在することも意識しない無数の他人、それぞれに人生があるのをこの作者はポジチブに見ているのだなぁ、と。

ドラマチックでもロマンチックでもない、脈絡もないエピソードがダラダラと積み重ねられているだけだけど、それが実は本当のところだったりするのだろうね、とボンヤリ思う。

本来の社会学の研究やルポルタージュのテーマに沿わずに零れ落ちた部分の寄せ集めなんだけど、その寄せ集めも、あえて選りすぐった「ここに引っかかってもっと掘り下げてみたいぞ」と思ったものではなく、「なんでこれ採録したの」と言うのがいまいちピンとこない、本書を通じて一貫したなにかしらのテーマも見えない散漫なエピソードの集成。

 

・・・という印象だったのですが。

再読してどうやらそうではないんだな、という感想に変わってきました。

あえてテーマを絞ったわけでもなく、奇をてらって極端なエピソードを集めたのでもなく、このまとまりのなさこそ、伝えたかったことなんではないかなと。

 

本の中にも何度かくどくど書いてはいるんだけど、以前と違って、今回はその辺が腑に落ちました。

以前は何に引っかかってたのか思い出せないくらいに、すんなり分かった。

文章のためらい具合というか、ハッキリしなさ、優柔不断さ加減も以前読んだときはイラッとしてたけど、今回は少し穏やかな気分で読めた。

なんというか、そんなもんだよなぁ、と。

ホモサピは矛盾の塊。作者はそれを肯定的に受け止めてる。

後書きでもそのことははっきりしている。

 

ゴチャゴチャしつつも他者との回路を開く方向に行きましょうよ、ってね。

 

全体として以前よりはふんふん頷きながら読めたけども、この結論だけはまだちょっと受け付けられないかな。

吾はまだ、そこには辿り着けない。

自分の中にある矛盾や都合のよさ、ダブルスタンダードをまるっと抱えて肯定する、というかそんなもんだと受け入れるのはまだちょっと難しい。

他者との回路を開くというその作業に移る前に、もうちょっと自分の内心でウダウダやっていたいんだよね。

そうしてるうちに死ぬんだろうけど、なに、人間はみな、長期的に見てほとんど死んでいる。他者に開かれる前に死ぬ奴が独り二人いたところでどうということはない。

 

というか、そういう奴も込みで社会は成り立っているのだと、この本は教えてくれる。

 

本書の作者とはたぶん相容れないんだけども、相容れないなりに他者となにかしらを分かち合うことの出来る雰囲気、瑣末なことをそぎ落として主張を貫き通すのではなくて、その瑣末なこともキチンと拾う、本書の底に流れてる優しさというか穏やかさが、好ましいと思った次第。

 

それが書きたかったことなのかどうかはともかく(いまのところ)吾はそう読んだ。

いずれまた読後の感想は変わるだろうと思う。

郷愁。

10日ぶりか。

けっこう間が空いた気がしなくもない。

特に何があったわけでもないけども、祖母の一周忌で帰省してた。

しかし旅は疲れるね。

 

旅そのものの肉体疲労もアレなんだけど、中継地での神経の消耗が酷い。

なんで人ってこんなにたくさんいるの。

いっぱいすぎやろ。

車窓から眺める風景もいろんな人がにぎやかに往来しててそれがまた辛い。

辛いというか、頭がいっぱいになってしまう。

ここに集まってるホモサピそれぞれが

みんなまったく別の人格を持っていて、

まったく別の目的でもってここにやってきていて、

そしてまったく別々の場所へと帰っていくっていう当たり前のことがしんどい。

行き来してる人たち、そのすべてが意識をもって互いに擦れ違っているんである。

もろちん自分もその一人。

こんだけの人間がごみごみうろちょろしながら、それぞれの人生を背負って生きているのだというのは当たり前なんだけど、一度考え出すともう辛い。

一つ一つはバラバラなのに、全体になるとなんでこんなに秩序だってる感じで流れてるんだというのがこうね、居心地が悪い。

たまに定点観測カメラとかで撮影した交差点の早回しのシーンとかあるじゃないですか。

あれもすごい秩序だってるなぁ、って思うけど、そこに映ってる人それぞれなんてのはあまり意識しないのに、車窓を通して眺めるヒトやクルマの流れは何故か、意識してしまう。

ふだんも街中に居るのは居るんだけど、こういう風にバラバラの目的で集まって分かれてという集団の中に紛れるのと比べるとストレスがない。

仕事という形で、ある程度目的が重なってる安心感も大きいと思う。

駅になるとまったくバラバラだからね、

たまたま同じ時に同じ場所にいただけの赤の他人だらけ。

そんな赤の他人が自分と同じようにどこかに行こうという意志を持ち、そしてその意思に沿って動いている結果、ココで自分と擦れ違っているんだということそれ自体がなんとも浮足立つ感じがする。

とにかく自分以外にも意志を持って動いているホモサピがこれほどまでに大量に居る、というのを目の当たりにするのは本当に圧倒される。その事実を受け容れるのにとても神経を消耗する。

 

こういう時、自分はとことん人間が嫌いなんだなあ、と痛感する。

 

なんなんだろうね。

距離を隔ててれば人の考え方もそれぞれだよね、って思えるのに、あまりに近いと言葉を交わしたわけでもないのに擦れ違っただけで距離を置きたい、ってうっすら嫌悪感が湧いてくる。

吾ながら神経質すぎる。

 

 

実家はほどよく過疎、もとい一般的な意味ではだいぶヤバみのある過疎ではあるんだけど、あれくらいの人のまばらさが吾には心地よかった。

他人がほぼほぼ視界に入らないくらいの距離感で、それでいて仕事には困らない、そんな場所に行きたい。

 

いつも以上にとりとめのない文章になったけど、まだ疲れが残っているからかもしれない。来年には復活すると思います。

 

 

ただ離婚してないだけ 1 (ヤングアニマルコミックス)
 

 ※帰省途中に読んでた奴。出てくる奴ぜんぶ最高に気持ち悪い。

この気持ち悪さも居心地の悪さに拍車をかけたかもしれない。2巻まで出てます。お奨めは…しないかな。

赦そう、しかし、忘れまい。

この手の話になるとホントに分裂してるというか、自分でも意味が分からない話になるのでなるべく避けたいのだが、気になっちまったもんはしょうがないので書いとく。

 

「原爆Tシャツ」のBTS(防弾少年団)を『ミュージックステーション』で観たくない、という僕は「ネトウヨ」なのだろうか? - いつか電池がきれるまで

妥当な結末だが、コレ米産のバンドか歌手がやってたらどうなってたんだろう、ってのが気になる。戦争犯罪の当事国であり宗主国である米国の連中がやったとしたら、もやっとすることになってたんじゃないかなと。

2018/11/09 17:08

 

吾の中で原爆というのはもろちんダメなものではあるんだけど、人類に対する犯罪である以前に、アメリカンの本邦の住人(日本人)に対する戦争犯罪だよね、という意識がどうしても強くある。

それはおそらく、はるか昔の終戦特番の影響が強い。

米軍(たしか米海軍だったと思う)の司令官が、戦後初めて長崎の原爆慰霊碑に献花した時に、原爆に焼かれ、生き残ったお爺ちゃんが、米軍の去った後に献花された花輪をめちゃくちゃに踏み砕いてたのね。

 

まあ褒められた行為じゃないと思う。

けど、人間の当たり前の感情としてそうだよな、というインパクトはあった。

そりゃ戦争負けたよ?

米軍のおかげで敗戦後の経済的繁栄はあっただろうさ。

けどそれで今花を置いてった連中の仲間に、じっさいに焼かれた記憶がチャラになるかよ、と。

そういう意味で深く納得したのを覚えている。

番組の意図としてはそうじゃなかったのかもしれない。

お互いの恩讐をのりこえて友好・固い同盟! って演出したかったのかもしれないが、吾の印象に残ったのは神妙そうなフリ(吾にはフリに見えた)をする米軍司令官と、踏み砕かれてぐちゃぐちゃになってもまだ歯を食いしばって花輪を踏み続けるおじいちゃんのコントラストが烈しすぎて、そっちの方が印象に残ってる。

 

まだこいつ(米国)ら許されてねーし、許しちゃいけねーんだ、と。

 

こういう刻み付けられた印象があるんで、どうしても吾の米軍に対する見方はだいぶ辛い。偏見だと思う。何度かそういう色眼鏡ダメだろ、って思って反省はするんだけど、この手の話題になると、どうしても真っ先に米軍に対する反発が浮かんでくる。

困ったもんである。

 

そういった次第で、冒頭の話題からやや外れたブコメとなった。

韓国のアイドルがやらかしたんだし筋違いだよなー、と思いつつも、これアメリカンがやってたらどうなったのかなー、ってのは引っかかった。

アメリカンも「核のおかげで戦争被害者減らしたんだよ」っていうストーリーを信仰してて、ああこいつらほんとクソだな、って思うんだけど、連中が原爆シャツを着てたら、これほどの反発が起こっただろうかと。

 

原爆記念日オバマがやってきて「俺たちは悪くないよ、人類の罪だね」みたいなクソ演説をしてそれで、わっしょいわっしょい、って持ち上げてたの思い出してさ。

拘り過ぎだと分かってるし、立場上素直に謝れるわけがないのは分かってるけど、アレを全面的に受け入れちゃう土壌になってる今の本邦のメンタリティなら、今回の韓国アイドルのチョンボも、アメリカンがやったのならスルーしてたんじゃないだろうか? そんな風に思いました。

 

韓国アイドルのやってることもおおいにクソだけど、それをクソと指弾できるだけまだマシじゃないかなあ、とふんわり思う。

偏見ですね。

どうにかしないといけないと思うんだけど、けどやっぱりおじいちゃんの表情が脳裏に残ってて、ことあるたびに蘇ってくるんでどうしようもない。

せいぜい妥協して

 

やったことはしゃーないし、今のアメリカンがやったことじゃないから赦そう。

けど、オマエラはアレを神話として受容している以上、もう一度核を使う連中だということは忘れまい。

 

くらいの不信感に凝り固まった受忍にとどまると思う。

 

ひどい暗い話だ。100%自分の都合でしかないから誰にぶつけるもんでもないんだけどさ。子供にはあんまり、敗戦特集番組とか見せるもんじゃないのかも。けっこう引きずってます。