書いてること全部理解できたわけじゃないし、再読しなけりゃいけないなって思うけど、それでも面白かった。
直ちに自分の生活で有用であるとも思えないし、明日使えるムダ知識でもないんだけど、こういう話は好きである。
普段何気なく使っているそれっぽい「バブりワード」
※ブコメで「バズワードでいいじゃん」という指摘があって、それもそうだなと思ったけど、吾は「バブりワード」の響も捨てがたいと思った。
その実際の定義ってのを掘っていけるのが面白いというか、それを言い換えたらどうなるのっていうのがね。
固定的人間関係のときの「自己責任」と
流動的人間関係のときの「自己責任」
この辺をごっちゃに語ってぐちゃぐちゃの「悪いとこ取り」になっているという指摘はとても腑に落ちた次第。
固定的人間関係の責任の取り方取らせ方は刑事罰的で
流動的人間関係の責任の取り方取らせ方は民事的~~みたいなくだりも面白い。
この著者は言い換えが上手いね。
言い換えが上手いってことは騙す能力が高いという事でもあるので警戒しないといけないのだけど、
「分かったような気分にさせてくれる」という新書の効用としてはレベルが高い気がする。
ただ第6章以後の著者本人の考える「自由のジレンマの超え方」の部分ではややその言い換えとか置き換えの納まり具合が微妙かな、とも感じた。
著者にとってもまだこなれてない概念のせいなのか、こちらの理解力がしょぼいのか、たぶん両方のせいだろうけど、前半のするする読める感じはない。
この読みにくいところをキチンと読み下すのには時間がかかりそうなので、ひとまず棚に上げておいて、現時点で気に入ったのは
「喪失による普遍化」よりも「獲得による普遍化」を目指そうよ
っていう著者のスタンスかな。コレは同意する。
著者いわく
「喪失による普遍化」というのは
特殊なアイデンティティを剥ぎ取られた普遍化のことで
資本主義の発展によって職業・技能の違い、男女の違い、地域・身分・民族などの違いがみんな剥ぎ取られた単純労働者の「プロレタリアート」が生み出されたことをさしていて、
一方で著者が提示する
「獲得による普遍化」というのは
様々な特殊なアイデンティティを複数並立的に「我が物とする」普遍化のこと・・・らしい。
・・・読んでる最中はそこそこ「なるほど」と思ったけどこうして自分で要約してみると何のことだかさっぱり分からんな。
誤解を恐れずに要約してみると
産業革命が起こる→機械化で単純労働・大量生産へ移行
そうすると職能・体力などの男女の差その他もろもろの差異が解消の方向へ
↓
庶民がアイデンティティ喪失による普遍化(プロレタリアート化)を果たす。
それぞれの(~~らしさ)を意識しないで済むよう(もっとも、それが達成されるまでの反動はいっぱいある)になるので連帯して境遇の改善に取り組む事ができる
↓
美しい世界へ!!・・・というのがマルクスの見立て。
※ここまでが「喪失による普遍化」の時代?
だったんだけども
19世紀末、今度は重工業化(第二の産業革命)が起こったおかげで
いったんは単純労働者として普遍化するかに見えた流れが、男性複雑労働力が中心となる労働構造へとシフト
↓
労働が複雑化することで、互いに直接に示し合わせて生産を調整することが難しくなり、その調整機関として経営エリートが、複雑労働に従事する両者を媒介する。
↓
この媒介に必要なのが「モノ≒考え方」(シンボル・記号・シグナル)。
それぞれ異なる複雑化した労働に従事する人々が、その労働や業務に特有の「考え方」を受容する事で、再び階層的・民族的なアイデンティティが復活する。
※ここが良くわからんかった。
要はブルーカラーはブルーカラーらしい振る舞い、ホワイトカラーもまたそれっぽい振る舞い、というのが後から作られた、という理解でいいのかしら? んじゃ民族的アイデンティティが復活するとはどういうことなのかしらん?
↓
よってマルクスが言ったようなプロレタリアートの連帯は不可能になる。
そして、今起こっているのは著者のいうところの『転換X』
ITやらAIやらグローバルの進展やらで、複雑労働や現行の「モノ≒考え方」が無効化されつつあるので、従来の固定的人間関係がメジャーだった時代から、流動的人間関係がメジャーな時代へと移行しつつある。
↓
現行の固定的人間関係に基づくアイデンティティの破壊という側面を持っているので、抵抗はいっそう激しくなる。ナショナリズムの亢進なんかはその現れの一つ。
↓
しかし、流動的な人間関係がメジャーとなる時代において、固定的人間関係がメジャーだった時代の振る舞いはNG。かといって共同体や民族といった固定的人間関係によって培われたアイデンティティを剥ぎ取るのは弊害が大きすぎる。
↓
絶対至高の価値として一つの共同体から得られる考え方やアイデンティティに依存するのではなく、複数のアイデンティティを同時並立的に「我が物とする」仕方で流動的な人間関係がメジャーとなる時代へ適応していけばいいのでは
↓
この際に並立的に複数共存するアイデンティティ同士の対立を解決するために「統整的理念」とか必要なんではないのかな
※これが、「獲得による普遍化」?
という具合に自分の中では理解した。
たぶんだいぶ間違ってると思う。
なんとなくだけど、個人としてできる対処としては、現状で一つの観念にしがみつくのは時代の流れとしてだいぶ危険で、自らの拠って立つところは複数に分けておいたほうがよく、その上でいずれにも偏らず、そうした複数の観念の間の競合や対立を審判する上位概念として「統整的理念」、ぐうの音も出ないほどの正論を掲げておくのが、精神衛生上よろしいのかな、と思った。
この読み方で合ってるんだろうか?
読んでるうちは「つまりこういうことやろ」っていう風に漠然と理解してたが、こうして書き起こしてみると実は著者の狙いからはだいぶ外れた感想を抱いているような気がしてならない。
まったく「自由」について触れてねーし。
かなりおっきいこと書いてあるのに「個人の生きる指針」程度にまでちっさくしてるし。
まあいい。
世に出した以上、どのように読まれようとも覚悟の上であろう(暴論)。
吾はこのように読んだ、ということをここに書きとめておく。
とりあえず。
「自己責任」というバブりワードで世の中を気って捨てるイケテルブロガーやネッツの匿名にモヤモヤした気分を感じてる貴方、その辺少しスッキリさせたい方におススメです!