afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

利他の精神

こうしてブログを書いていると、ないよな、ってしみじみと思う。

 

書きたいことを優先しすぎてて伝えることについてかなり疎かになってるので、文章力の向上はなかなか難しいのではないか。

そもそもブログの方向性が見えない。一年前のブログ読んでも何書いてるのか自分でもよく分らない。

ただ書き散らすことで満足してたんだなというのがよく分る。

 

今もそれはあまり変わらないが。

 

にも拘らず、文章を上手くなりたいと参考になりそうな本を読むようになったのは何でなんだろうと自問している。

承認欲求が高まったので、アクセス数を気にしてなかったブログでも少しは見る人が増えて欲しいから?

それは間違いなく理由の一端ではあると思う。

思うけども、痛切にそれを必要としているのであれば、今のような3人くらい/日の閲覧数では「少なすぎて我慢がならない」という風にイラついてきても普段の吾ならおかしくないのだが、そんなこともなく。

淡々と気が向くままアレコレ書いてる。

 

この「気が向くまま」ってちょっといやらしいな。

少ない世間の目をまったく気にしてないかのような言い方。

スイマセンちょっと見栄を張りました。多少は読んでる人に受けるといいな、と思うようなネタを書いてます(吾なりに)。

 

しかしまあ思ったほど書くことの衝動の根っこが「承認欲求が高まりすぎて」とかではないとすると、では今こうして書き続けてる理由は何か。

惰性と暇つぶしが大きなウェイトを占めるけど、たまに無理して長文書いた後に

「無駄な時間過ごしたな」

っていう後悔が胸をよぎらないでもないので暇つぶしというのはちょっと違う気がする。

しかし人に説明する時には「暇つぶし」といってしまうのが一番現状しっくり来るような感じもする。

暇つぶしで益体もない雑文をダラダラ・・・ってのはちょっとカッコ悪いな!

けど現状そんな感じだし否定も出来ないしな!

 

そうか。

暇つぶしで益体もない雑文をダラダラ書くのは好き! 

・・・ただそれをそのままストレートに言っちゃうのは何か恥ずかしいので、ブログに何らかの益があるように見せかけたい!

ってのがいろいろ文章力弄ろうとした本当の理由なのかも。

雑文でも体裁が整えば、人の役にたつようなネタになるかもしれない、っていう下心。

「テキスト打ちのリハビリ」ってのも雑文だけど練習中ですよ、っという言い訳の予防線みたいなものなのだ。

 

 

うーん、分かってみるとまさに見栄っ張りな割に小心者な吾らしさがにじみ出てる。

まあいいか。

これからもダラダラ続けよう。

ただ。

ダラダラ続けすぎても後から読むと自分でもあちこちにとっ散らかって分りにくい文章になるのは過去記事を読んでよく分った。

「他人に読みやすく」のモチベーションが薄いらしいというのは分ったにせよ、どうせ続けるのなら「自分に読みやすく」くらいは心がけようと思う。

いずれそれが他人にとっても読みやすいことに繋がるかもしれないし。

 

利他の精神に乏しい性格は残念だけども、結果として利他になるような「自分のため」はなるべく続けていきたいと思う次第。

描写と説明の違い。

文章練習の課題、岸辺一徳をすっ飛ばして五つ目は「描写と説明」と来た。
これは面倒くさい。どちらも同じじゃないのかよっていうね。
面倒くさいことから逃れるためにだと思いますが、取り掛かったときに
「ずいぶん昔の岸部四郎が失踪したとかドタキャンしたとかの報道、今やったらアウトだね」
って思い出した。
思い返してみるとだいぶ心をやられてる感じの面持ちだったのに、ようしゃないやり方だったメディアのみんなもヤバイけど、そんなワイドショーをのほほんと見てた吾もかなり酷い人物と思う。
無知ってきっと罪なんだ。

では逃げていても仕方ないので、課題に移ります。

 

 

 

書くことが思いつかない人のための文章教室 (幻冬舎新書)

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「子供の頃、母は病弱だった」or「家が貧乏だった」という短文の説明に、どう病弱だったか、どう貧乏だったかの様子を描写しなさい・・・という課題。

「家が貧乏だった」のほうのでちょっとやってみたいと思います。

家が貧乏だった。
世の中にはいくらでも貧乏というのはあると思うが、「家に屋根のない部屋がある」という貧乏はなかなかないのではなかろうか。
長じて自分の住む地区が、学区の中でもなかなかに貧乏人の住まうエリアであることを知った後でも、一度も「屋根のない部屋のある家」に住んでいる貧乏人とはお目にかかったことがないので珍しい部類なのだと自負している。
雨漏りがする家は数多あるだろうが、雨が降る家はほとんどあるまい。作りかけの骨組みとそれにかけた寒冷紗だけは残っているので、葉の落ちた枯れ木の下で雨宿りする程度の濡れ方で済むが、それはずぶ濡れと同義である。
よって、雨になるとその部屋は使えない。天気のよい日は使っていたのだ。
元々は父が子供部屋にするつもりで普請していたらしいが予算が途中で尽き、屋根はまた後で、となった次第だと後に聞いた。家を建てる頃はまだ貧乏ではなかったらしい。
やがて家運が傾き屋根を普請する余裕などまったくなくなっても、しばらくは骨組みにブルーシートをかけて雨は凌げていたらしいが、夏の暑さでやられてからは寒冷紗に切り替えたのだという。
記憶にあるのは寒冷紗越しの空なので、だいぶ小さいころに切り替えたのだと思う。
なぜそのとき屋根をかけない、という疑問が湧くのは金のあるご家庭の疑問である。
屋根をかけるようなまとまったカネがあれば貧乏などしていない。
そうした次第で、けっきょく高校を卒業するまで寒冷紗で覆われた部屋が子供部屋としてあてがわれた。天気さえよければそこで寝るのだ。雨であればさすがに父母と同じ部屋に寝るがいろいろと難しい年頃であるから屋根はなくとも壁はある部屋はありがたいと思っていた。
年に数度は寝ているうちに雨に降られることもあったがさいわい風邪を引くことはなかった。
・・・高校を卒業し自分も働き始めて、家計全体が少し余裕が出来た時に、屋根にペラペラのベニヤ板を貼り、防水のためペンキを塗った。ベニヤにしたのはトタンより安かったからだ。
10年以上も雨ざらしの骨組みは脆くなって、釘を打ち付けてもスカスカで心許なかったが、それでも自分の部屋に屋根がついたのは嬉しかった。
雨がバンバンとベニヤ板を叩く音も、心地よく眠れるので好きな音だった。


一部実話でやってみた。
子供の頃、家じゃなくて倉庫がしばらく骨組みだけだったことがあるので、そこから想像。
ビニールシートとか適当に貼れば住めるな、と感じて、キャンプしてみたいと思っていたのでなるべく完成しないで欲しかった。
けっきょくキャンプを試みる前に倉庫は完成してしまったのだが、「屋根だけがない部屋」というのを想像するのも面白いと思いました。
もっと分かりやすい「貧乏の描写」もあるんだろうけど、着るものや食べるものの不足感は切ないのでちょっと想像したくなくて逃げた感じです。

海に行きたい

昼間はセミがうるさい。

夜はカエルがうるさい。

静かな場所へ行きたい・・・。

 

海はいいよね。

夜の海がいい。浸かるのはイヤだけど。

波の音を聞くだけでいい。

単調でリズムに馴れ始めたあたりで唐突にでかい波がズドーンってなるの。

そして身構えてると小さい波がしばらく続く。

そろそろまたでかいのが来るか・・・? って予想も外れて単調な波に戻っていく。

何とかして規則性を見つけようとしばらく耳を澄ますんだけど、やがて飽きて寝る。

海水浴とかいいので、夜海辺で寝たいです。

波に攫われない程度の距離で。

 

子供の頃は、この時期稲刈りが終わった後の田んぼにテント立ててキャンプしたりしたのを思い出す。

田舎は稲刈りがそれはそれは早くて、盆前にもう全ての稲刈りが終わっている始末。

話には聞いてたけど夏真っ盛りなのにまだ青々としている本土の田んぼを見て驚いた記憶があります。

んで、田んぼで刈り取りが終わってすぐなんだからまだ水路の水も涸れてなくて、刈り終ってない田んぼもあるんだから、夜はカエルの音がうるさいはずなんだけど、不思議とキャンプ中には聞いた思い出がないんだよな・・・。

海のすぐそば、防風林の裏にちょこんと作られたような短冊のような田んぼだったけど、海が近すぎるからカエルが居ない、とかってこともないはずだし、鳴いてたはずなんだけど、記憶からすっぽり抜け落ちてる。

波の音がそれだけ印象深かったってことなのかしらん?

 

もう実家でもコメを作らなくなって久しいけど・・・またあの田んぼでキャンプしてみたい。