或いは、讃えよフォーディズム。
「一九八四年」と並ぶディストピア小説らしいが、そこまでディストピア感はなかったかな、っていう。冒頭の乳児生産工場ほかそこここにディストピア風味なことは書いてあるんだけどさ、それより何より、主人公の一人、バーナード・マルクスが「いる! いるよこういう奴!!」「つーかコイツ俺じゃねえのか?」ってなる。
マルクスがねえ。
ほんっと小物なんですよ。
序盤はまだいい。
「ああ、理不尽な「みんな繋がっているの」社会になじめないんだね」ってなる。けど中盤以降がホントきつい。
ジョンと出会ってからの舞い上がり具合。
自分からどんどんあれほど嫌悪していた体制の側に擦り寄っていく。
何のことはない、反体制を気取ってたけど、自分の思い通りにならないリアルに僻んでただけ、思想も何もない小物だったんですね、ってのが曝け出されてる。
よわよわポジにいるときは
「俺はお前らとは違うんだ! この体制は間違ってる!!」
って吠えてた(ただし体制の犬に見えないところで)。
ポジション逆転したら
「まあなんだ、この体制も悪くないよね」
ってニヤける。そりゃヘルムホルツも呆れるわ。
しかしまあ・・・吾も心の中にマルクス飼ってるよな、って思わされたのも事実。
マルクスが所長に啖呵切ってドヤ顔するシーン、
その後所長がどうやら本気だと分かって「今のナシ! ノーカン!!」ってうろたえるシーン。
君は・・・君が思ってるほど、強くないからね?
って思い知らされるシーン、いっぱい辛い。
このあと、マルクス氏は登場するたびに人物としての品位を低下させていきます。
哀れなもんです。
ディストピア小説の体だし、事実そうなんだけど、それよりはむしろマルクスのこの人としての卑屈さ、卑小さ、それでいて無根拠な尊大さ、ちょっと立場が変わればいくらでも傲慢になれる無節操さ、変節漢っぷりに惹かれましたね。
小物とは、小市民とはこんなもんであると。
ジョンの懊悩もいいけど、あっちはまだ「人として強い」感じがする。
なんだかんだで一番折れにくそうなのはヘルムホルツだけども。
クライマックスのムスタファとの問答や、ひとりでこのディストピアで暮らし始めたジョンの結末も面白いけど、これは読んでもらったほうがいいと思う。
しかし、この作品で描かれたディストピアって、あまりピンとこないんですよね。
ディストピアというには、現実にあまりに近すぎる感じがして。
「繋がってて当たり前」
「孤独って完全に悪」
「みんながみんな、同じように感じるのがステキ」
「同じ時に同じように感じることができないのって異常」
この辺のディストピアの特徴って割と現実社会でも既に達成されてないかしらん?
人間集団、社会の安定が最優先されるから「自我」「自意識」を持つことはアウト、犯罪でございます、ってところまではまだ行ってないけれども、より小さな集団単位、学校単位や職場単位、さらに小さいクラス単位や家族単位になると「みんなが同じように考え、感じる」ことは暗黙の了解となっていて、そこに違和感を覚えること自体が後ろめたいこと、というように感じるのは今でもあるのではないかしら、と。
ソーマがあるおかげ、というのを割り引いても、安定的な階層、睡眠学習によってぶち込まれた価値観をまったく疑わずに済む環境、フリーセックス。
順応してしまえば、これはこれでユートピアかもしれん。
マルクス氏の顛末を見ても感じますし、「考えずに済む」「むしろ考えないことが安寧への道」というのは心弱き小物には魅力的に映ります。
部分部分を見ると、えげつないディストピアであるのは間違いないんだけど、
「けど・・・快適で、便利でしょ?」
って言われると、否定できない強い誘惑がある。
「でも、僕は不都合が好きなんだ」
「われわれは好きじゃない。なんでも快適にやりたいね」
ね。
こういう本音を乗り越えるのは、現生人類には無理なクエストの気がするよ。
ジョンが思っているよりも、あるいは作者が望んでいたよりも?
この世にはミニ・マルクス氏やミニ・レーニナ、ミニ・フォスターがウジャウジャいる。この小説を「ユートピアやん?」って受け止める人が出て来てもまずおかしくない。
「一九八四年」よりもむしろ、こっちのほうが人類の未来に近いのかもしれないと感じました。
それはさておき。
小物のマルクスの憂鬱と栄光、そして転落の読みたい方におススメです!
※追記。
ここの書評がメッチャ参考になります。
孤独ぶちのめすぞ、ってやってる社会はこの先どうなるんでしょうな。