保育所もなくなった。
小学校はかろうじて残ってる。
中学校はもうない。
高校ももうない。
大学は・・・しばらく大丈夫かな、ひょっとするとやばい。
あまり昔のことは気にしないのだが
不意に思い出したとき、夢とかを見たときに
「あれ、どうだったっけ?」
って記憶の混濁が激しいので、「現地で確かめる」という手が使えないのが地味に辛い。覚えていないようで覚えていた風景とか、一体どこで見ていた風景なのか思い出せなかったりする。
思い出すときに「それを見たときの年齢」をキチンと把握して思い出せる人はえらいと思う。自分の場合「見たのは覚えてるよ」ってのはあっても、一体いつだったかまったく見当がつかないこともある。
自分ではだいぶ前に見た風景だと思い込んでいたのが去年見た光景だったり、つい先日見た光景だと思っていても「もう10年も前から更地」みたいになることがザラである。
これで失敗してきたことも数多い。
中学時代の光景だと思って、覚えがないかと中学の頃の友人に尋ねる→高校の通学路から見える風景でした。
or
高校の頃の光景だと思って(ry → 中学の遠足の風景だったよ。
と言ったぐあい。
中学と高校、一緒に進学した友人が一人もいないので、吾以外誰も
「それ記憶混じってるよ」
ということを指摘してくれる人がいない。
周りがいかにも腑に落ちないツラをしているので「俺の捏造記憶だったのかなぁ」とあんまり納得のいかないまま引っ込めると後日、高校←→中学の時系列があべこべになってた、と言うのに自分で気付くというパターンが非常に多い。
だからどうしても気になるようなら自分で確かめるより他ないのだけれども、肝心の校舎が潰れてたり、転用されてたりで現地で確かめるというのがとても難しい。
どれも「いつ見たのか覚えてない」というのはたいしたことじゃないからだと思う。「いつ頃見た光景か」ってのを覚えてるのは、体験込みで思い出せるので、ただボンヤリと眺めていた光景が一まとめになって頭の中の雑なフォルダに詰め込まれてるんだろう。
帰省して時々、中学・高校の跡地と周辺をうろちょろしてみる。
旧友と会うこともあるけど、まあだいたい居なくなってるからちょっと寂しい。
そうやって彷徨しながら特定できた記憶の光景もいくつかあるけども、最近は打率がだいぶ下がってきた。
というか、いま特定できてない「アタマの中の光景」って特徴がなさすぎる。
「山」「海」「森」その程度で説明してしまえるくらいに単色。
濃淡はあるけれども、それが著しい特徴になっているかって言うとノー。
なんとかして特徴らしい特徴を見つけようとしたこともあるけど、その過程で記憶を捏造するアタマのイタズラ気質を痛感してからは、ボンヤリした捉えどころのない光景の記憶をそのまま放置している。
思い出そう思い出そうと力むと、勝手にドラマチック風景、絵になる風景に改変するんだよな、脳みそ。
おかげで実際に、過去に見たとおりの光景にぶつかっても
「イヤここには崩れかけた小屋があったはず」
などと不必要なアクセントを脳内で捏造してるおかげでしばらくスルー、ということもあった(これは後から当時の写真が偶然見つかって捏造記憶と判明)。
とらえどころのない記憶の光景に、この先どれくらい再会できるんだろう。
期待はだいぶ薄いので、脳内に残った記憶を、脳が勝手に脚色してしまう今の取り出し方法じゃなくて、記憶そのまま写真に出来る技術はやく実用化しないかな、と願っている。