そんなような本を読む。
思ってたのとちょっと違ったけども。
報道で見かける無差別通り魔の後に
「死刑にして欲しかったので」っていう犯罪者たちのセリフで一番引っかかってた
「誰でも良かった」
のものすごいウソっぽさに対する回答が何かあるのかなあ、って思って読んだ。
ストレートにそれに対する答えはなかったけど、
タイトルどおり、自殺は他殺の反転現象 という解説に、ほええ、となった。
「誰でも良かった」
ってのには直接に答えてないんだけど、
「なんで一人で死なないの?」
という疑問には一つの答えを出してる。
それが
自殺願望 ≒ 反転したサディズム
なんだという。
サディズムも憎悪も、ほかのだれかを殺そうという意思も、ある時点で反転して自分自身に向かうのが自殺願望であって、自殺も他殺も、スタート地点は「他者への攻撃性」である事に変わりはない。
その後、攻撃性は内に向くか、外に向くかは流動的。
臨床例でも
攻撃性が自己に向いて自傷行為・自殺未遂が頻発する状態と、攻撃性が外部に向けられる状態が交互に出現する
パターンはけっこうよく見られるのだそうな。
この際に重要な役割を果たすのが「投影」
「投影」というのは
自分自身の中にあることを認めたくない資質・衝動・感情・欲望などの内なる”悪”を外部へ投げ捨て、他者へ転嫁するメカニズム
なのだそうで。
これで説明すると
自らの悪を よそに投影し、抹殺しようとした場合
→ 他殺へと踏み込む
(憎しみや敵意の対象である)他者の悪を 自分に取り込み、それを消そうとした場合
→ 自殺になる
のだと。
後者の具体例として、いじめ自殺が挙げられていた。
いじめっ子のほうが明らかにevilにもかかわらず、自殺という形で復讐を果たそうとしている面
すなわち、いじめの加害者側を名指しして自殺することで、その公にされたことを知った社会が自殺した「自分」に代わっていじめっ子を懲らしめてくれるだろう・・・という処罰感情の消化を目指した期待があるのだという。
そう説明されるとたしかに「復讐としての自殺」ってのはそういうことなのかなぁ、と思ったり。
んでこの本、拡大自殺として大量殺人についても「投影」でもって理屈づけようとしてるんですが、ここが分かるような分からないような。
社会が悪いんや、って自己の認めたくない内部の「悪」を外部に投影して、それを抹殺する事でスッキリ、まではとりあえずわかったとして。
その後、大量殺人しちゃった自分が死んじゃうのが、まだやっぱり分からない。
「投影」した相手を排除する事に成功したら自分の中の「悪」もいったんは解消されて、生への執着とかでてくるんではないかしら? って。
この部分について、本書では
「投影」して他者に押し付けてなかったことにしてみたところで、
自分内部の「悪」はスッキリ消えるわけじゃない
→けっきょく自分で、それを引き受けなくちゃいけなくなる → 自殺
どうしたって溢れる自己の「悪」に耐え切れない、その前段階として暴発としての他殺≒大量殺人があるけど、解消できないのでやっぱり自殺しちゃう
という流れではないかな、って解説されてるのですが、うぅむ。
そう言われるとそうかな、という気もするけど、そうなるとますます
「いやそれなら一人で抱えてしまいなさいよ、人に当たる前に」ってちょっと冷たい事を思ってしまう。
そも拡大自殺と本書で呼ばれている大量殺人の犯人について
「他責的傾向(要は責任逃れの発想)がめちゃくちゃ強い」
って分析しているけれども、こういう身勝手な棚上げ傾向って誰にでもありますよな。
・・・ちょっと主語がでかくなった。吾にはあります。見たことないけどない人もいるだろうし「誰にでも」は言いすぎでした。
話を戻して。
「他責的傾向」というのがトリガーの一つになるとして、
社会に復讐してから俺も死ぬ
までに拗らせる/拗らせない の閾値はどのへんなんだろうかと、その辺が気になった。本書では「自己責任論と他責的傾向は表裏一体」としているんだけど、なら尚更
どこからが危険な「他責的傾向マン」なのか、予防的に知りえないものかな、と感じました。
今さら自己責任論を取り下げた社会風土を作り出すことは困難だろうし、多くの人が抱えてる「他責的傾向」という奴を暴発しない程度に適宜ガス抜きしていく方法を考えたほうがいいのではないかしらねえ、とそんなことを思いました。
一番気になったテーマが大量殺人だったのですが、それ以外にも拡大自殺のカテゴリーで介護自殺とか、親子心中とか、テーマがテーマだけに憂鬱になる事例がいっぱい載ってます。
疲れてるときや気鬱のときは読んじゃダメ、ゼッタイ。
よっぽど元気で「へこたれないぞ」ってくらいに心が明るさに溢れてるときにはおススメかもしれません。