主張そのものはまあそう。
ただ人に向けるものではないよね。
うっすら「そう理解していてくれるといいな」という程度のもので。
たまに
「オレは世界に愛されている。オレが世界を愛しているのと同じかそれ以上には」
という振舞いを目にすると眩しくて目が潰れちゃう。
オレは互いが互いにうっすらとした嫌悪感と憎悪を抱き合っている、そんな基層は共有している世界のほうが好きかな。
「オレはオレ的にオレが好き、よってお前もオレが好き」
式、嫌いなんよ。
お互いに持ってる価値観と正義感が違う以上、相手の価値観と正義感に対する忌避感はあって当然だと思うんだけども。
自分が世界に愛されてる、自分は受け入れられると思ってる傲慢な人ほど、相手の価値観と正義感を屈服させて自分と同化させることに熱心に見える。
別に相手は相手で放っておいてよくねえ? 自分の生活領域を侵さないかぎりは。
これなんか典型的で反吐が出るんだけども、自身も「報じない側」であった連中が、外圧で突破口が開かれただけで、さも「問題に思ってました」かのごとく囀り始めてるんだよね。
ならなんで性行為強要の事実が認定された2004の文春敗訴裁判のときにそれを伝えなかったのか、それを問われれば「オレにも生活があるから」って答えそうな奴らがね。
別にそれはそれでいいんだよ。
けどそうやって「生活のために」他者を踏み躙ってきた以上、その相手から嫌悪感と憎悪を向けられるのは覚悟しないといけないよね、という。
今になって正義ヅラしてる主要メディアの人たち、喜多川の狼藉を判決確定後も20年ちかく沈黙し続けてきたあらゆる主要メディアの人たちは、これから広報に勤しんだところで殴られるのは不可避だよね、って。
生活のために、生きるために。
ある局面では悪を見逃し、ある局面では積極的に迎合する。
自身の生活を向上させるために。
別にそういう選択は動物として間違ってないしオレだってやる。
けどそれは確実にそうやって「悪」に加担してるオレサマの振舞いによって、害されている他者が確実に存在する。
そうした他者から向けられる嫌悪感と憎悪は生きていく上では引き受けないといけないやつ。しょうがない。
引き受けきれない憎悪を招きそうなら、それを回避するためにいやいや正義に従う。
一方で他者も「生きていくために」目をつぶる悪、迎合する悪はゴマンとあるだろう。そうして他者が加担する悪によって害を被る局面は確実にオレサマにもある。
もちろん他者も引き受けきれそうになかったらオレサマの正義に妥協することもあるだろう。
それこそが社会だと思う。だからオレは
「互いに互いをうっすら嫌い憎しみ合ってる」と思ってる。
相手の正義踏み躙ったり、自分の正義を強要したり、生きているかぎり終わらない殴り合いの連鎖だもの。
この相互の嫌悪感、そこから来る相互の牽制が、互いの自制と自重を促すものになると考えている。
相互の生存の尊重なんて高尚な行動規範がホモサピに通用するかよ。
どんだけ自己評価が高いんだよ。滅べホモサピ。
歴史上そんな社会がどこに現出したよ?
現出しないからこそ「災害ユートピア」なんて造語が生まれるわけで。
さして変わったモノの考え方でもないと思うけどね。
自制も自重もしないまま、ただ正義を訴える人たちは、相応の覚悟はしておいたほうがいいよな、と感じています。
もっとも、上下左右いずれのベクトルも正義を騙る主義者たちの多くがそんな覚悟のできない連中だからこそ、心から軽蔑し、侮ることが出来るんですけどね。