afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

こころとこゝろ。

 

校正のこころ

校正のこころ

 

 編集画面から直でサーセン

校正って大事だぞっていう本。

そういう風に見るのか! って。

イメージとは全然違ったね。

編集の人が「著者に沿った目線」なら

校正の人は「ゲラに沿った目線」、著者からも編集の人からも独立した立ち位置で目の前の言葉そのものに向き合わなきゃいけないのだ、と。

分かるような分からんような。

ここがたぶん本書のキモの部分なんだけども、そこがいまいち腑に落ちなくてちょっと落ち着かない。

読んだ瞬間は「ふむ! なるほど!」って思ったんだけど

あらためて(手元に該当所がない状態で)考えてみると、ちょっとあれっ?ってなる。

本書をきちんと読み込めてないというのも大きいのかもしらんが、

著者目線でもなく、編集者目線でもなく、さらには読者目線でもなく、ただただ生まれたばかりの「ことば」と対峙する。

ってのが未体験なもんなんでどういう風にすればそういう心持ちになれるんだろ、という疑問が湧く。

世に流通している書籍なんかの場合は確実に読者目線で読んでるし、あまりに不出来だという印象を持った場合には、いっぱしの著者目線・編集者目線で「ここはこうしたほうがいい」というアドバイス罪まみれの読みをしている。

ブログなんかの文章は「生まれたばかりのことば」になるのかもしれんけども、これを手入れしようとするときの意識もやはり、どっちかというと読者よりというか受けをいちばん気にしてる風なところがあるし、自分で書いててなんか引っかかる文章だったら変えたりというのもある。

いざ言われて分類してみると、校正者の視点つうのはまったく欠けているんだということに気づかされた。

 

巻末部のQ&Aで具体的な校正の仕方のアドバイスがあるのだけれども、これを踏襲すれば「校正者の視点」というのが獲得できるんだろうか。

発信する以上はそうしたプロセスを経ないと危険だぞい、というのはアタマではわかるんだけれども、「めんどくさ」という気持ちも湧く。

こういうのは、言葉に対して不真面目であるので発信する資格がないということなのかもしれない。

今までだいたい思ったことをそのまま垂れ流してきたブログだけども、これって「拒絶する力」に全振りな感じの構えだったのかも。

より開かれた「届く力」のある言葉を書くには校正の手助けは不可欠だろうなと思いつつ、届かせたいという意欲が書いてる吾本人にあんまねえな、というのも悟る。

 

ただそうはいっても言葉そのものの生態が「繋がりたがりつつ拒む」っていう矛盾したものであるらしいので、吾自身が「別に届かなくていいや」って思いながら発した言葉でも、その言葉自体の欲求はそれとはまた別である可能性は大いにある。

今まではそういうの気にしたことなかったけど、己の発した言葉が、発した己の意図を超えて動こうとするのを制御するorアシストする、というのはいずれブログを書く上でも必須のスキルになるのかしらん?

 

自分が書いてるブログが意図を超えて広がるという経験がまだない、ポツンとした言葉の羅列なのでまだその必要性に気づけないのかもしれない。

意図を超えて広がって処置しきれなくなる前の炎上抑止の作法として校正はきちんとしたほうがいいんだろうな、と思いました。

 

※なおこの記事はいつもよりやや慎重に訂正はしていますが推奨されたような校正はしておりません。明日から本気出す。吾はまだ本気出してないだけ。