その想像力のなさはどう評価すべきか。
いや、想像力のないまま「助けてあげたい!」ってピュアピュアな動機そのものは否定したくないんだけどさ。
けどその動機がいっくらピュアピュアでも、新たな排除を生んでしまうのならそれはどうなの、っていうね。
しかし一方で、こういう無鉄砲をやらかす奴がいて初めて、その問題に目が向く届く、という側面も間違いなくあることを考えると、ただぶっ叩けばいいのか、というとそれも違うと思う。
どうしたらいいんだろうな。
理念や理想論を現実に落とし込むときに発生する無数のゴタゴタ、どう考えるべきなんだろう。
より良くなるための必要な犠牲と考えるべきか?
件のcakesのホームレス記事だって、その取材にあたって、ホームレス支援のボランティア活動してる人たちの協力を仰いでいる。仰ぎすぎて依存しているように見える点も多々あるが。
あれのホームレスの捉え方は粗く雑ではあるけれども、問題そのものを取り上げることで広く周知される、という点ではやや成功しているわけで。
しかしこの手の「目を向けさせる」「問題は問題として意識させる」ことを目的とすることで零れ落ちる例はいくらでもあるわけだ。
人生無理バーであれば対処不能な人であったり、
Cakesの記事であれば貧窮して(作者の意図に沿わない事情で)ホームレスやってる人であったり。
社会問題全般として、支援してる側はそれで100人いたら90人は救える、というのでまあ良し、となるだろうし。
世の中の側も、それくらいの割合で救えてるのならOK牧場、くらいにはなるだろう。
まあ社会の仕組みとして、完全に全員を救済するなんてことは無理なのだからこれくらいの歩留まりで救えるのなら、犠牲はやむなしというのも正しい、のだと思う。
そもそも救おうと思い行動してるだけでも、大分すごいことではあるのだ。
しかし翻って考えると、それでも、切り捨てられる側のいわば「かわいげのない奴」はどう転んでも救われないんだよな。
この救われてない現実に対して「けどほかの多くの人は救われてる」とか「問題そのものを可視化する際に、一般に受け入れやすい形に加工するのは当然」とかって支援する側の道理が対峙するには、あまりに弱い気がする。
そりゃあまあ…救われる奴は増えるのかもしれないけど、それでもやっぱり救われない奴は救われないよね。
こういう時に「だから仕方がないんだ」という風には考えたくない。
「仕方がない」であれこれ諦め始めると、すごい勢いで線引きが楽な方へ楽な方へ更新されていくからね、特に俺みたいな怠惰で弱い人間の場合。
だからって答えがあるわけじゃないんだけど、「じゃあどうすればいいのか」を考え続けてないとすぐに諦めてしまうので、答えなんて出せないまま、それでもやっぱり気に入りませんよ、という意思表示だけしておきたい。
※かわいげのなさの一つの極致。ヒトの限界を思い知らされる。