afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

逝きし世の面影。

昔はどうだったんだろうな、ってその事だけが。

ちょっと掘ったかぎりでは、はてなダイアリーの頃までは手斧が飛び交ってたけど

そのはてなダイアリー文化圏においても

はてなブログはヌルい」

みたいな認識が流通していたように見受けられる。

古参の皆さまは如何お考えでしょうか。

 

さておき。

www.yutorism.jp

 

これと

anond.hatelabo.jp

 

これ。

はてなダイアリーの頃なら、ダイアリー VS ダイアリー でさぞ殺伐としたハートウォーミングが見られたのではないかと思うのだが

今では ブログ VS ブログ というタイマン勝負は発生せずに、

ブログ VS 増田

という、若干の非対称*1を生じるのは不可避なのかな、というしんみり感をおぼえた次第。

 

 

マクドナルドのアレを消費税のパンドラの箱とか言ってる奴

パンドラって言葉の意味するものを理解しないまま使っちゃう残念な人もいるし、名前を隠して楽しく日記できない残念な人もいる。

2019/09/17 06:26

b.hatena.ne.jp

 

げに。

もっと手軽に手斧を投げつけ合って、言葉のナイフでお互い膾になるまでヤり合うのが、いいと思うな。

 

 

パンドラ〈上〉

パンドラ〈上〉

 

 ※どうでもいいがポンキッキはひらかなくなった時に死が約束されていたと思う。

 

*1:最大の非対称はブログ VS ブコメ だと思うけど。

貴方はそこにいますか。

誰かいませんか。

 

これなら書ける!  大人の文章講座 (ちくま新書)

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読み終わってちょっと反省もなくもないけど、同時に反発も。

読者をちゃんと想定する → してない。

読者にベネフィットを与える → 考えてない。

前向きなことを書く → ちょっと思いだせない。

 

全部だめじゃん。

「読ませるために書く」という序盤から「あっコレは合わない」って思ってたんだけど、思った以上にぜんぜん合わなかった。

言ってることは、100パーセント作者が正しい。

間違いなく。

「なるほどこうすれば書けるのか」みたいな参考になるところもたくさんある。

 

ただなぁ。

 

読者たる「誰か」を想定しろってのがな。

 

毎回、枕に「自分用しおり」とか書いてるのは本当に自分の思考の整理用に書いてるからであって。かなりの程度読者のことは無視してる。

 

「なら日記でいいだろ」

ってのが外れてるのは昨日一昨日のエントリで分かるとおり。

日記ならああいう反応を貰って、そこからもうちょっと自分の考えを練ってみる、みたいな展開にするの無理だよね。完全に閉じてるから。

 

読者のことを考えない自分本位の文章はNG,ってのが圧倒的多数派なのは分かるんだけど、自分の思考錯誤の行ったり来たりを整理するために、ひとまず文字に落とし込んでおく、みたいな使い方をする人はそんなにマイノリティなのかな・・・?

 

書くことでだんだんクリアになることってのもあると思うのだけど、どうだろうか。

もっとも、文章にすることで意識が引っ張られて、元々の偏見が強化されるような危うさもじっさいある。

それを誰かが諫めてくれる可能性を考慮して・・・というわけじゃないけども、ちょびっと期待しつつ、本来自分の日記帳で済ませてていいような日々の雑感をブログとして公開している、そんなところはある。

 

終盤の方で「ブログならそういう使い方をしてもオッケーやで」って言及もあるので全否定されたわけじゃないんだけど、なんかちょっともやっとする。

 

読者を想定して「ピントのズレたことを言うのを止めよう」というその構えそのものに、ちょっと不支持を表明したい。

読者向けに書いて、読者から反応が貰えるのは嬉しいことです、という。

それはそのとおり。間違いないと思う。

で、それが「なんかやだなぁ」と。

自分だけかもしれないけど、そういう書き方をすると「設定できる読者」がものすごく狭くなる。

んで。

その「狭い読者」から反応を得た成功体験が麻薬になって

「こういうことを書けば・・・きっと読者は反応するぞ!!」

みたいに自分が思ったことをそのまま出すより、読者の色よい反応を得るための演出や潤色を加えることを躊躇しなくなると思う。

この辺をきちんとバランス取れる人ならいいんですよ。俺は自信がない。

反応を得るためにやたらと過激な言葉で想定した読者に阿るような文章を書きまくるだろうな、って思う。

なので「読者を想定しましょう」という出だしで抵抗がある。

俺が読者想定して書きだしたらきっと酷いぞ。

「いかがでしたか」ブログよりもつまらんものになる自信がある。

 

・・・読者は貴重な時間を割いてお前の文章を読んでるんだぞ!!

って指摘はかなり心に刺さりました。

だからこそ読者のことを考えなきゃ、というのはド正論。

 

なんだけど・・・もっとこうね、緩くはいけないもんだろうか。

暇で暇でしょうがなくてふらふらネット漂ってた誰かが、俺の駄文読んで

「こういう風に考える奴もいるんだな、へぇ」

くらいに斜め読みして数秒後にはスカッと頭から抜けている、それぐらいがちょうどいいんすよ。

あえてベネフィットというのであれば

「バカはバカなりに何か考えているふりをしているものだな」

というパターンを広げるのに一役買えればな、と思いつつ。

今夜もどうでもいい駄文を垂れ流す次第。

 

巧拙あれど「何か」をどう感じたか、っていうその人固有の話聞いたり読んだりするの面白いと思うんだけどな。

読者たる誰かを想定しないとそういう「その人固有の語り」にはならないということなのかしらん? 少し引っかかっております。

昨日の続き、というか。

最初のwattoさんのブコメでちょっと考えたこと。

あらかじめ言っておくと、あくまで自分にはそう見える、程度のことで、ここでいったん文字にして残しておくのもいいか、と思ったので書く。

自分用の思考の整理。読み難いのはご容赦。

 

昨日

「アタマの回転の残念な階層ほど根こそぎ右に動員されている(大意)」

「その階層の「アタマの悪さ」を晒すのは逆効果にしかならない(大意)」

というようなことを書いたのだけど。

いろいろ下品。 - afurikamaimaiのブログ

問題点の設定は、それでいいのだろうか? 最悪の敵であるはずの「無能な味方」をそれだけ大量に取り込んで、崩壊の兆しすら見せないかの陣営の、強靭さの秘密こそを研究するべきではないのか?(半分冗談、半分本気

2019/09/12 15:01

b.hatena.ne.jp

 

このようなブコメをいただいて。

多分これは(完全に自分の主観ですが)、右派指導層の持つ(左派のそれとはまた違った)「愛のなさ」ゆえの強さじゃないのかなぁ、と思っています。

 

こちらの意図を外れているにも拘らずやたら行動的な、本当に足を引っ張るしか能のない「無能な味方」を陣営に取り込んでどうする、というのはたしかにそのとおりなんですが、右派は彼らを「味方」としてではなく、常に代替可能な資源としてしか見ていないんじゃないかと。取り込んでるようで取り込んでない。

ヘイターが過ぎる過激派の行動の後ろ盾となる燃料(になるニュース※往々にしてデマ)と理論(のようなもの)は供給し続けるくせに、いざそれが社会との不整合を起こした途端に、冷笑リアリスト気取りで「気持ちは分かるがアレはやりすぎである」と変節する輩たち。

連中の上っ面の優しさと、その奥のどうしようもない酷薄さが右派の最大の強みじゃないかなと思っています。

敵陣を攻撃するにあたり、異常に攻撃的で聞くに堪えない、目を背けたくなるような表現を用いるのは両極において見られるものですけど*1、左派のそれがムラの内側の昂揚感ゆえに「周りが見えなくなっている」のに対して、右派のそれはそうした昂揚感を外から操っている奴がいる。

指導層に当たる連中が、不満を持つ過激派を動員するにあたって利用した思想そのものを自身も信用しているわけではなく、ただ「道具」として扱っているのが今の右派の強みなんじゃないかな、と。

だから厳密には右派でもなんでもなくて、ただの機会主義者たちが強いだけなんじゃないかというふうに思っています。

 

「自らの信じる正しさ」を持っているのであれば、(俺は決して認めたくない奴だが)桜井誠のようになるのが成り行きとしては自然。どれほど叩かれようが曲げないという筋を通せば、それゆえに負けが退潮に繋がる。

 

afurikamaimai.hatenablog.com

 桜井誠を一時期持て囃していた右翼界隈、今も元気にはしゃぎ回ってますよね?

ヘイトスピーチ規制という割とイタイ思想的敗北を喫したにも関わらず。

桜井誠が法廷に引きずり出された時に、彼に寄り添わなかったビジネス右翼たち。

連中にとって、思想とはその程度のもの。

「動員に使える都合のいいツール」の一つに過ぎない。

この割り切りこそが、今の右派の強さだと思っています。

桜井や左派が争っている

「自らの思想に沿った世界の実現のために戦う」というのとは、層がズレている。

「単に多数派を握りさえすればよい」それだけで動いているからこその融通無碍。

自分の中に譲れない何かがある、という連中が勝てる相手じゃないと思う。

卑劣すぎて与する気はしませんが。俺の中では桜井誠以下。

何でもかんでも相対化して「ドッチモドッチ」と中立を振舞いつつちゃっかり勝ち馬っぽいポジションは確保済みの冷笑気取りのリアリストども。

卑劣漢というほかない。

 

上手く転換できないけど、ここで話は変わる。

「無能な味方」にしかならない人にどう接するべきか。

 

同じくブコメで紹介されてたこれが参考になると思った。

いろいろ下品。 - afurikamaimaiのブログ

トルコ野党の「過激な愛戦略」が有効なのではないか。→<a href="https://www.asahi.com/articles/ASM765CXTM76UHBI018.html" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://www.asahi.com/articles/ASM765CXTM76UHBI018.html

2019/09/12 17:48

b.hatena.ne.jp

 

桜井たちはやってることは他者への仇なす行為で認められるもんではないけど、それでも桜井は社会から断罪された後もその思想に集う者どうしの紐帯、同志愛があると思う。

一方で機会主義者でしかない冷笑ビジネス右翼の界隈に取り込まれてた人たちは、世の中の趨勢というか、社会の都合とバッティングして旗色が悪くなった途端に冷笑気取りの中立によって切断されて取り残される。

そこに手を差し伸べるのは、やっぱり必要なんじゃないのか、と思うんですよね。

余命三年ブログに踊らされた人たち、あの人たち本当に哀れでしょうもないんだけど、攻撃された弁護士と左派はむろんのこと、中立気取りの自称「普通の日本人」界隈にも蔑まれてて、居たたまれない。

けどここで「ざまあ」だけで溜飲を下げて終わるのであれば、そういう盲目的な「アタマの出来のその程度の人」を利用しなかったというだけで「愛のなさ」では左派も「普通の日本人」ども変わらないよな、と思うわけで。*2

 

とはいえ、こうして取り込まれた右派を、左派を名乗るなら何でもかんでも救え、というのは無理な話。

無理な話なんだけど、右に行ったけど途中で引き返した、引き返したくなった、その分岐点は千差万別なはずで、そんな人たちの中には、受容しうる「右派に引き込まれつつあった人たち」も少なくないだろう、と思う。

特にネット界隈ではいったん右派的な言説を弄したが最後、その一つでもって最後まで左派からは忌避される空気があるんじゃないか。

この雑さを先ずはどうにかすべきではないか。

なんか前にも何回か書いた気がするけど、ツイッターブコメって特にその傾向が強い。とにかくクラスタをみる目が雑。

「奴はああなっちまったんだからしょうがない」という言説をとかく弄しがちだけど、「ああなった」の「ああ」とはどういうことか。

その辺もっと突き詰めて考えるくらいのことはすべきではないか。

自分にとって許容できる/できないの境界を突き詰めて、その境界からほんの少し踏み出して自分とは反対側の人にも回路を開いてみる。

それにはこうやってグダグダ書いてみるのも有効だよな、と俺は思っている。

というか、こうやってグダグダ書くことでしか具体的な自分の許容量というのが見えてこない。

ブコメツイッターだけでやると、「これこれこういう理由によって俺はコイツが嫌いらしい」みたいな細かい快・不快はどうしても荒っぽくなりがち。

いきなり愛するのは無理でも、その荒っぽい切断処理で対抗勢力と対峙するのを控えるくらいのところからはじめるくらいの事は出来るのではないか。

 

全然まとまってないけど、今のところ感じてるのはこんなところ。

左右云々よりもむしろ、人をコマかカモとしてしか扱えない全体主義性向の連中に対する嫌悪の方が俺の中ではデカイッぽい、というのが現状の結論かな。

ドッチモドッチの連中、ふわっとした人の上に立ちたさが滲み出てる、人を動かしたがる感じが気持ち悪いと思ってる。

あと、まず枠を作ってそこにはめ込んで「奴のことはこう了解すればよい」みたいに悪い意味でデジタルな世界観が出来上がってる人や振る舞いが、ものすごくキライなんだと思う。

 

世界はきっと、もっと広いぜ。じっさいに話したり見たりしなくちゃ、分からない。

 

 

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 ※破壊屋氏のブログでオールタイムベスト100の選外だったのは意外やった。

*1:くたばれオリンピック、などと言っている俺が言っていいことではないのはここでは棚に上げる

*2:ここで数に恃んだ懲戒請求に反撃した弁護士たちから、実行犯に和解案が提示されたのは救いというか、なんというか左派の矜持だなぁ、と思う。