afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

昨日の続き、というか。

最初のwattoさんのブコメでちょっと考えたこと。

あらかじめ言っておくと、あくまで自分にはそう見える、程度のことで、ここでいったん文字にして残しておくのもいいか、と思ったので書く。

自分用の思考の整理。読み難いのはご容赦。

 

昨日

「アタマの回転の残念な階層ほど根こそぎ右に動員されている(大意)」

「その階層の「アタマの悪さ」を晒すのは逆効果にしかならない(大意)」

というようなことを書いたのだけど。

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問題点の設定は、それでいいのだろうか? 最悪の敵であるはずの「無能な味方」をそれだけ大量に取り込んで、崩壊の兆しすら見せないかの陣営の、強靭さの秘密こそを研究するべきではないのか?(半分冗談、半分本気

2019/09/12 15:01

b.hatena.ne.jp

 

このようなブコメをいただいて。

多分これは(完全に自分の主観ですが)、右派指導層の持つ(左派のそれとはまた違った)「愛のなさ」ゆえの強さじゃないのかなぁ、と思っています。

 

こちらの意図を外れているにも拘らずやたら行動的な、本当に足を引っ張るしか能のない「無能な味方」を陣営に取り込んでどうする、というのはたしかにそのとおりなんですが、右派は彼らを「味方」としてではなく、常に代替可能な資源としてしか見ていないんじゃないかと。取り込んでるようで取り込んでない。

ヘイターが過ぎる過激派の行動の後ろ盾となる燃料(になるニュース※往々にしてデマ)と理論(のようなもの)は供給し続けるくせに、いざそれが社会との不整合を起こした途端に、冷笑リアリスト気取りで「気持ちは分かるがアレはやりすぎである」と変節する輩たち。

連中の上っ面の優しさと、その奥のどうしようもない酷薄さが右派の最大の強みじゃないかなと思っています。

敵陣を攻撃するにあたり、異常に攻撃的で聞くに堪えない、目を背けたくなるような表現を用いるのは両極において見られるものですけど*1、左派のそれがムラの内側の昂揚感ゆえに「周りが見えなくなっている」のに対して、右派のそれはそうした昂揚感を外から操っている奴がいる。

指導層に当たる連中が、不満を持つ過激派を動員するにあたって利用した思想そのものを自身も信用しているわけではなく、ただ「道具」として扱っているのが今の右派の強みなんじゃないかな、と。

だから厳密には右派でもなんでもなくて、ただの機会主義者たちが強いだけなんじゃないかというふうに思っています。

 

「自らの信じる正しさ」を持っているのであれば、(俺は決して認めたくない奴だが)桜井誠のようになるのが成り行きとしては自然。どれほど叩かれようが曲げないという筋を通せば、それゆえに負けが退潮に繋がる。

 

afurikamaimai.hatenablog.com

 桜井誠を一時期持て囃していた右翼界隈、今も元気にはしゃぎ回ってますよね?

ヘイトスピーチ規制という割とイタイ思想的敗北を喫したにも関わらず。

桜井誠が法廷に引きずり出された時に、彼に寄り添わなかったビジネス右翼たち。

連中にとって、思想とはその程度のもの。

「動員に使える都合のいいツール」の一つに過ぎない。

この割り切りこそが、今の右派の強さだと思っています。

桜井や左派が争っている

「自らの思想に沿った世界の実現のために戦う」というのとは、層がズレている。

「単に多数派を握りさえすればよい」それだけで動いているからこその融通無碍。

自分の中に譲れない何かがある、という連中が勝てる相手じゃないと思う。

卑劣すぎて与する気はしませんが。俺の中では桜井誠以下。

何でもかんでも相対化して「ドッチモドッチ」と中立を振舞いつつちゃっかり勝ち馬っぽいポジションは確保済みの冷笑気取りのリアリストども。

卑劣漢というほかない。

 

上手く転換できないけど、ここで話は変わる。

「無能な味方」にしかならない人にどう接するべきか。

 

同じくブコメで紹介されてたこれが参考になると思った。

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トルコ野党の「過激な愛戦略」が有効なのではないか。→<a href="https://www.asahi.com/articles/ASM765CXTM76UHBI018.html" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://www.asahi.com/articles/ASM765CXTM76UHBI018.html

2019/09/12 17:48

b.hatena.ne.jp

 

桜井たちはやってることは他者への仇なす行為で認められるもんではないけど、それでも桜井は社会から断罪された後もその思想に集う者どうしの紐帯、同志愛があると思う。

一方で機会主義者でしかない冷笑ビジネス右翼の界隈に取り込まれてた人たちは、世の中の趨勢というか、社会の都合とバッティングして旗色が悪くなった途端に冷笑気取りの中立によって切断されて取り残される。

そこに手を差し伸べるのは、やっぱり必要なんじゃないのか、と思うんですよね。

余命三年ブログに踊らされた人たち、あの人たち本当に哀れでしょうもないんだけど、攻撃された弁護士と左派はむろんのこと、中立気取りの自称「普通の日本人」界隈にも蔑まれてて、居たたまれない。

けどここで「ざまあ」だけで溜飲を下げて終わるのであれば、そういう盲目的な「アタマの出来のその程度の人」を利用しなかったというだけで「愛のなさ」では左派も「普通の日本人」ども変わらないよな、と思うわけで。*2

 

とはいえ、こうして取り込まれた右派を、左派を名乗るなら何でもかんでも救え、というのは無理な話。

無理な話なんだけど、右に行ったけど途中で引き返した、引き返したくなった、その分岐点は千差万別なはずで、そんな人たちの中には、受容しうる「右派に引き込まれつつあった人たち」も少なくないだろう、と思う。

特にネット界隈ではいったん右派的な言説を弄したが最後、その一つでもって最後まで左派からは忌避される空気があるんじゃないか。

この雑さを先ずはどうにかすべきではないか。

なんか前にも何回か書いた気がするけど、ツイッターブコメって特にその傾向が強い。とにかくクラスタをみる目が雑。

「奴はああなっちまったんだからしょうがない」という言説をとかく弄しがちだけど、「ああなった」の「ああ」とはどういうことか。

その辺もっと突き詰めて考えるくらいのことはすべきではないか。

自分にとって許容できる/できないの境界を突き詰めて、その境界からほんの少し踏み出して自分とは反対側の人にも回路を開いてみる。

それにはこうやってグダグダ書いてみるのも有効だよな、と俺は思っている。

というか、こうやってグダグダ書くことでしか具体的な自分の許容量というのが見えてこない。

ブコメツイッターだけでやると、「これこれこういう理由によって俺はコイツが嫌いらしい」みたいな細かい快・不快はどうしても荒っぽくなりがち。

いきなり愛するのは無理でも、その荒っぽい切断処理で対抗勢力と対峙するのを控えるくらいのところからはじめるくらいの事は出来るのではないか。

 

全然まとまってないけど、今のところ感じてるのはこんなところ。

左右云々よりもむしろ、人をコマかカモとしてしか扱えない全体主義性向の連中に対する嫌悪の方が俺の中ではデカイッぽい、というのが現状の結論かな。

ドッチモドッチの連中、ふわっとした人の上に立ちたさが滲み出てる、人を動かしたがる感じが気持ち悪いと思ってる。

あと、まず枠を作ってそこにはめ込んで「奴のことはこう了解すればよい」みたいに悪い意味でデジタルな世界観が出来上がってる人や振る舞いが、ものすごくキライなんだと思う。

 

世界はきっと、もっと広いぜ。じっさいに話したり見たりしなくちゃ、分からない。

 

 

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 ※破壊屋氏のブログでオールタイムベスト100の選外だったのは意外やった。

*1:くたばれオリンピック、などと言っている俺が言っていいことではないのはここでは棚に上げる

*2:ここで数に恃んだ懲戒請求に反撃した弁護士たちから、実行犯に和解案が提示されたのは救いというか、なんというか左派の矜持だなぁ、と思う。