昨日の続き。
キレイな裁量労働の経験者の話と、キタナイ裁量労働の経験者の話。
面白いな、と思ったのは、昨日取り上げたブログ
もそうなんだけども、1番目の記事はキレイな裁量労働制で働きながらも、多くの本邦の裁量労働制が「うまく行ってない」というリアルをちゃんと受け止めているところ。
2番目の記事も、本筋としての裁量労働制の利点は認めつつ、現行の運用としてキタナイ裁量労働に従事してしまっていることを吐露してて、裁量労働そのものへのヘイトとはなってない(現行の制度は法の趣旨を逸脱したい企業に都合の良い逃げ道いっぱいでクソではある、と指摘)のが印象的。
「俺はこれ(裁量労働制)でうまく行っている」
「裁量労働についてこれない奴はクズ」
「底辺ども会社に依存し過ぎ」
「腐った違法な条件で働いてるオマエラが自己責任」
って感じなんですよね。
いやはや何ともリアリスティックだなあ・・・と思いつつも、全てのキレイな裁量労働制の労働者がこの
「裁量労働制は企業に悪く運用されててもOK,旧弊にしがみついてるオマエラがクソ」
的な切り捨て感を共有してるわけじゃないってのは興味深いと感じました。
どこでこの意識の差が発生するんだろ、って思ったんだけど
やっぱどれだけ広い視野を持ってるか、ってことだと思うんですよね。
ホッテントリ入りした例の記事の誇張した認識
「裁量労働そのものがクソ」
って認識もだいぶ視野が狭いよな、って思うけども、逆もまた真なり。
ってのも、視界が半径2メートルくらいの点では大同小異。
自分はうまく行ってるけど、全体としてはどうだろ?
(自分はめっちゃ不遇だけど、全体としてはそうでもなくない?)
ってとこまで注意して見てはじめて、いわゆる建設的な議論って奴が出来るんじゃないですかね。
こう書いてみるとやっぱ議論って人の度量が試されてると思いますわ。
自分が恩恵を受けている境遇のマイナス面に目を向けるのはあまり気持ちよろしくないだろうし、
自分が不遇であるにもかかわらず、それによって救われている人もいる、ってプラス面をキッチリ認めるのも相応に負荷が大きい。
そうした感情的なモヤっとしたものはとりあえず措いておいて、『現状はどうなんだろうね』ってところから互いに擦り合わせのできる人間だけが、建設的な議論ができるのかもしれません。
なんだか糾弾するような感じになったけど。
吾もだいぶ視野狭く生きてるからね。
ホッテントリ入りした記事の
「労働者に業務量の裁量はない」ってのを、反論記事読むまで鵜呑みにしてたからね。
(※実態としてそうなってる例が多いだけ、法律上は違法だし、間違ってる模様。)
他人のこと言えたもんではない。
ただ認識を改める機会が与えられたのなら、ホイホイ乗り換えるだけの尻の軽さは保持しておきたいと思った次第。
これからもなるべく断言しない生き方をしたいと思います。