afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリのはずだったが、今は路頭に迷ってる

これがニーチェだ。 その2

いちおう通読しました。

通読したけど・・・やっぱり分かったような分からんような。

どこを理解できてどこを理解できてないのか。それを整理するためにメモ。

完全に自分用。

 

この「目次」という機能、どうやって使うんだろう?

編集してもまったく画面の変化がないのだが。 

 

諦めて普通に書く。使えない機能の使い方確かめるほどアタマの余裕がないわ。

 

なぜ人をころしてはいけないか

 本来は素朴な疑問。受け取る側に疚しさがある。

 

その答え

1、究極的には理由はないが、「とにかく」ころしてはいけない

 →問うた人間は納得はしないだろう。

 

2、きみ自身、きみが愛する人をころされる場合を考えてみよう。

 それが嫌ならころすべきでない。 

 →相互性の原理≒道徳性原理であるため究極的に納得はしない。

例えば?

 オレはオレが死んでも良いと思っており愛する人も居ないのでころしてOK

 →生を肯定してない≒倫理の基盤がないので道徳性原理が通用しない。

or

 オレ及び俺の愛する人が殺されるのは嫌だが、それが「殺すの禁止」に繋がる理由がわからない→相互性の原理の否定

 

3、重罪になる可能性をも考慮に入れて、それでもころしたいのであれば、やむを得ない いや、ころすべきだ。

 

3番目が究極的な答え。

なんでそうなるか。

道徳性原理は「人をころしてはいけないのはなぜか」という問いそのものを発することを禁じている。それは卑劣である。「そのような問いを発してはならない」あるいは「道徳的に反するから駄目だ」という答えは、答えになっていない。

道徳的にダメだからダメ、という答えのむなしさを覚える人間は、その虚しさをごまかすために言葉を弄する。誇り、尊厳、真の自由、etc……それらはすべて嘘。

 

とりあえずここまで書いてあるものをまとめてみる。

ほぼそのまま抜き出した形だけども、1の「ダメなものはダメ」式の回答はまあとりあえずアタマ捻った後に辿り着くのはこれかな、という感じはする。

2の「相互性の原理」の否定については、なんかずるいな、という気がする。因果応報ではないが「やられたらやり返される」みたいな暗黙の了解がうっすら世の中すべて覆ってるんじゃね、って思ったんだけども、それが通用しないから奪う側は奪いっぱなし、奪われる側はひたすら奪われっ放しで差が開くばかり、みたいな今のような有様なんだよな、と考えると「何故」人をころすっつーそのことについてのみ相互性の原理を厳格に適用しようとするのか、っていうのは説得力が無くなる。

まあ死んじゃえば取り返しがつかない、というのはおおいに重みがあるんじゃね、と思うんだけど、非合理な形で奪われたゼニカネを回復できずに本来得られたであろう人生を剥奪されるのと、ころされるの、その両方を比べて

「詐欺的な財産の剥奪には相互性の原理を適用せず、ころしにのみ適用する」

ってのはたしかに説得力薄いわな、と思う。

 

ここまでは分かるんだ。まあ分かる。

 

けど3「重罪になる可能性をも考慮に入れて、それでもころしたいのであれば、やむを得ない いや、ころすべきだ。」これちょっと跳躍してんじゃねえか、と思う。

 

思うんだけども、そのような「人をころしたい」という欲望に駆られて、そして確かにその欲望を達成することでその人が「生の肯定」を獲得できるのであれば、それを抑止するいかなる誤魔化しも蹴っ飛ばしてそれを指向するべきだ、という風に理解。

(このような歪んだ形で生の肯定を充足しようとするのに対して、社会の構成原理と折り合いをつけるように仕向けるように教育するのが政治的な力、ということらしいが…ここはまだちょっと分からん。)

 

 

うん。反社会的。

それがどれほど社会に仇なす何かであったとしても「それをしたい」と欲したのであればそれに素直にまっすぐ向かわねばならない、それが「力への意思」だという風に読んだ。

力を指向すること、それ自体には道徳的な価値判断は全く通用しないのだな。

多くの場合、「力」は無条件に善きものとして解説されてるけど(今のところ)、ニーチェは道徳を基準にしてない。

これはぶっ叩かれるわけですわ。

ナチ的しぐさをニーチェが擁護したわけではない、というけどもそれとほとんど同じく、ニーチェはナチ的な力の行使を否定していない。そもそもそういう価値基準を用いていない。

だから、ニーチェがまるでそうした「道徳的な」価値基準によって指向すべき「力」を取捨選択していたかのように語るのはウソッパチでございますよ、「力」であれば、それを指向することそれ自体を肯定している以上、スゲーやべー奴ですよ、と。

 

この辺誤解してたな。

なんだかんだで

「指向してよい力」

「指向してはいけない力」

というモノサシをニーチェ自身が持っていたのかと思った。

もっとも、この後精読すればそのモノサシも見えてくるのかもしれないが、今のところはそういう理解にしておく。

その方がなんか過激でカッコイイ、中二病っぽくて好みだな、というのもあるので。

 なに間違ってたら訂正すればいいだけだ。

 

以下次回。