自戒を込めて、というか
自戒するならそもそも触れるなよ、ってなる。
(それでも触れたくなるのは吾の下衆さだと思うが、棚上げしておく。)
どうあがいてみてもネタとして消費、という呪縛から逃れられない。
他者をネタとして都合よく消費している自分と向き合うことになる。
事象そのものよりも、そのことがしんどいし鬱陶しい。
徹頭徹尾、自分のことしか考えてない。
急いで意味を与え、消化しようとフラフラ徘徊してみたが、「落ち着きたい」という誘惑・単純化してしまいたい・意味づけして理解した(フリをした)い、というこの欲望は、おそらく冒涜にちかい。
腑に落ちてはダメなのだ。
似たような、感覚に近いところにある見解は幾つか見つかっている。
しかしそこに全面的に依拠して「吾はこれと同一見解だ」と落ち着いてしまうわけにはいかない。
近いけど、ズレがある。
このズレを押し殺して腑に落ちたつもりになれば、未消化のまま放置すれば、いずれ腐り、毒になる。
重ならない見解については、書くことによって自分の言葉でズレを解消するしかない。もっとも、言葉が拙いあまり、書けば書くほどズレが広がるように感じられることのほうがずっと多い。今回もご多聞にもれずそのパターン。
頭がグチャグチャしてるけども、それでもこのズレは自分の言葉で書かなければならない。他者を消費するにあたって、他者の言葉にのっかるのはEvilだ。しんどかろうが考え抜かねばならない。 棚上げした分、いずれ引き受けなければならないのなら、それは自分に背負える範囲にしておかなければ。