あるいは、一般論は常に具体に負けるということ。
じわじわ認識が広がってきた「まだら認知症」ってのと似た問題を感じる。
諦めるに諦めきれない奴ね。
一方で。
経済合理性から言えば、こういう暴論もアリっちゃアリなんだろ。
一般論として。
古市憲寿と落合陽一「高齢者の終末医療をうち切れ」論で曝け出した差別性と無知! 背後に財務省の入れ知恵が|LITERA/リテラ
- [終末医療]
「死を前に決意がフラフラする」ってのを軽んじていっぱしぶってる言論屋が当たり前のようにいる辺り、ホントに日常から死が締め出されてんだな、と。触れることのないものへの想像力を鍛えるのは難しいやね。
2019/01/02 06:14
けっきょく、この手の揺らぎって直に触れないかぎり想像が及ばないのはしょうがないんだと思う。
いざ終わりですよ、っつーことになった土壇場で決心が翻るというのは、意志の強い人ほど想像しにくいのかもしれない。
経験に勝る学習はないと思うので、初志貫徹して自らの手で自らの死を選べたのならば慶賀の至りだけども、ねぇ。
軟弱な日本人として、いまいち信用できんのよな、ホモサピが理性で決めた「覚悟」って奴。
もっと根っ子のところで、動物として生に足掻くっていう「本能」には逆らいきれんやろって。
こういうの見るとやっぱ後者の記事ってペラいよな、と思わざるを得ない。
正しさって人を救わねえ。
それを馬鹿だと罵る人も居るだろうけど、今ある可能性に縋る人間を切り捨てる側にはなれないな。
この手の「より大きな何か」に縋って他人を説得するかのような言説って本当にキライなんですよ。
「あなたが虚しく過ごしたきょうという日は、 きのう死んでいったものが、あれほど生きたいと願ったあした」
ネッツスラングのこれとか。
そりゃ大所高所から見たらそうでしょうよ、ってね。
俺がメシ食ってクソして寝て過ごした正月は、どっかの誰かが渇望した正月だったのよなぁ(詠嘆)
ってすごい正論。正論だけど「それで俺にどうしろと?」って。
いま目の前で生を閉じんとする(俺にとって)大事な人がいて。
その人に食い潰されるリソースが、まだ見ぬ誰かを救うかもしれない資源だったとして。
まだ見ぬ誰かのためにお前の生を閉じよ。
っていう自信はない。
死を語る位相が違うんだけなんだろうけど、けどやっぱ経済合理性に訴えてケリをつけろ、という言説とは相容れないな、って思った次第。
全体の幸福を考えられない偏狭な人間でゴメンね。
それでも。
経済合理性の一般論を振り回せば相手が黙ると思ってる人、ちょっとズレてると思う。
ホモサピそんなに賢くないですよ。思い入れ具合で人の命の重さは可変です。
若い日本人が10万人死のうが、目の前にいる大事な人が生き延びればいい、って本音の人、けっこう多いんじゃないかな。少なくとも俺はそう。ひょっとしたら、100万人の日本人の命と天秤にかけても、大事な人の命の方を取りかねない。
ま、反日日本人やね。
それでも、なし崩し的になるようにしかならないと思うけど、力の及ぶかぎりで税金は収めるので、日本国には安易に合理性で死を処断しないでいただきたく。
*1:満洲国にソ連軍が侵攻してきたとき、一部開拓団は開拓村の女子供を全て殺したうえで、男は皆、ソ連軍に突貫して玉砕しようとした。けどソ連軍戦車の群れを見て、誰言うこともなく抵抗すべく身につけた武器(手製の火炎瓶も含む)を捨てた・・・って話を思い出した。男たちの覚悟がニセモノだったはずはないんですよ。己の妻子を殺してるわけだからね。それでもその覚悟をも上回る生への渇望が間違いなくあったってことで、こういう土壇場での翻意を「俺はしない」と言えるかな、となると・・・
*2:俺も従容としてその死を受け容れるかどうかってなるとすげえ懐疑的。
もろちん現時においてそのような境地に達してないというだけで、いずれ博愛の精神で
「もういいっすよ」
ってなるかもしれんけど、実際なってみない事にはな。