afurikamaimaiのブログ

テキスト打ちのリハビリのはずだったが、今は路頭に迷ってる

俺とお前と有頂天。

期待値は鰻登り鯉幟。

こちらのブログで天声人語がネタになってた。

novtan.hatenablog.com

 

まさかぁ、と思ってた。

 

マジで書いてた(登録しなくても途中まで読めるよ)。

headlines.yahoo.co.jp

 

ふむぅ。

イヤ何というか、みんないろいろ他人に期待するんだな、と。

もろちんそこまで他人に期待する以上は、自分も同じポジになった時に

「そうあるべきだ」と例示したそのもの、理想として掲げた行動が取れるのだろうね、と。

以前書いた記事とはズレるが、すごく厭な気持ちになった。

どのへんがイヤなんだろ?

理想を高く掲げろよ、とは書いたけど掲げられるとイラッとするというね。

 

おそらく朝日のさらっと書いたコレが

「俺はこう動く」という意味で掲げた旗ではなく

「この旗は崇高である以上お前らは従え」という圧を前面に押し出しているように感じられるからかもしれない。

 

信じがたい保身。

 

自分がぶん殴られる立場にいて、身代わりになりそうな藁人形(人形ではない)がいて、それを差し出したこと、その影に隠れたことが咎められる。

「母」って属性に着目すりゃそうだろうね。

 けどさ。

「母であるならこうあるべきだ」っていう規範を無条件の前提にするのって、自称リベラルのやっていいことじゃないと思うの。

多様な価値観を包摂するぞ! ってんなら「こう動くべき」っていう規範を他人にぶつけることにもう少し慎重になってもいいんじゃない?

少なくとも「信じがたい保身」なんて強い言葉を吐いていいとは思えない。

親だから子を守らなくてはいけない、まあそうなんだけども。

そう動くに足るだけの前提条件を欠いた状態で、人間どこまでその原則を貫けるんだろう?

俺は弱いし、そも子供なんていないので

「まあ殴られるのいやだから、身代わりいたら差し出すかなぁ」って思う。若干の後ろめたさは感じるだろうけど、殴られるよりは・・・ってなるんじゃないかしら。

これもまた殴られる者への想像力の欠如だろうけども、それでも自己保身に走るんじゃないか。過去の経験からいうと、自分の本能は、たいがい理性を裏切る。

誰もがそうだとはいわないけど、俺はそうである。

 

そっから思うのだが。

いろいろと「まっとうな親と子」であるための前提が削れていった状態で

当事者がどのへんで「まっとうであること」を止めるのかはこれはもう千差万別なんじゃないか?

条件が少し崩れただけでネグる人もいるだろうし、我が身を犠牲にしてでも子を守ろう、って人もいるだろう。

そこを、無条件にいかなる状況下においても「母であり、親である」ことを

演じることを強要して、そこから外れたら「信じがたい保身」と叩くのは、如何なものか。

 

この在り方に何というか、すごい嫌悪感が湧いた。

言ってることは正しいと思う。

とても。

けど正しいからと言って痛みに耐える力、苦境に抗うメンタルって個人差あるのどうしようもなくね?

ホモサピの、そのユルさ弱さを無条件に赦せとはとても思わないけど、

そこで耐えるのがまっとうな親だ! 信じがたい保身!!

って糾弾しても、それは空しさしか残らないんじゃないかと俺は思います。

 

ホモサピ総体でみれば、理性なんて薄っぺらいペラペラなもんだと思ってるので

その薄っぺらい皮をどうやって守るか、メッキが剥がれないようにするか、

理性の薄っぺらい人間がそれでも理性的に過ごせる社会はどうすれば維持できるか

そういう方向で考えた方がいいと思うんですけどね。

 

まあこの辺は、俺の好みの話。

 

モラル高く掲げて、それについてこれない人間を切り捨てるのは、分断に慣れきった昨今のオピニオンとしてはとても、「らしいっちゃらしい」と思うし。

 

俺は俺で

自己犠牲なんてちゃんちゃらオカシイので、俺の切れる身銭は決まってますし

それ以上は求められても逃げます、ということを表明しておきたい。

 

つか己を捧げうる「何か」なんて天の声で降ってくるもんじゃないし。

内側から沸き起こるもんだろ。

他人に働く「自己犠牲」のトリガーが、俺には働かない、そんな奴割といるだろ。 

 

なんてね。