望んだわけでもないのにデジタルデトックス。
ちょっと依存症っぽいことを自覚せざるを得ない一日を送りました。
やべーな。
急にネッツから切られるとキツイ。
実家帰るとき、辺鄙な土地へ出かけるときは「つながるわけないじゃん」とすんなりあきらめもつくが、そういう心構えがないところに来るとキツイ。
前もって用意してないと、小者であるだけにめっちゃ狼狽える。
大事になればなおさらだろうよ、と。
これ。
有料部分は読めなかったので、無料部分だけ読んでてっきり
事前の意思疎通の不徹底の問題かなぁ、って思ってた。
この記事で参照してる「アドバンス・ケア・プランニング」って奴が実施されてなかったってことなのかなあ・・・ということだと思い込んでたのだが、こちらの記事読むとそもそもそんな時間がない、という話だった模様で。
ユルユル衰えていきやがて死ぬ、その死の直前期くらいに耐えがたい苦痛が訪れる、そういうのばかり想像してたけど、そんなわけないんだよな、と。
たった二日。
これでどうやって意思表示・意思確認を徹底できるのか。
死を迎える事前準備の制度として(まだ死に直面してはいないけれども)ACPの目指す方向は間違ってないと思ったのだが、それはまだ、時間の余裕があるからこその話なんだよな、とあらためて思う。
医療者には、時間がなさ過ぎます。
「患者の自己決定」の難しさ - Not doing but being
僅かな時間で意思疎通し、意思決定することの負荷の多くを医療側に投げるのはたしかに悪手だと思う。
もう少し普段から、自分も「死ぬときのこと」を考えなくてはいけないと感じた次第。
縁起でもないけど。
それでもたぶん、急迫する死を前にどうするかを決めきれないことの方が、より縁起でもない気がするんだよな。
人間、大体おもったとおりには死ねないのだから
緩やかに衰えていって死ぬパターン
急にダメになって死ぬパターン
両方を健康なうちから多少なりと意識し続けておいた方がいいんではないか。
記事を読んであらためて、自分自身の死については
「ある程度時間の余裕が見込める」と完全に思い込んでたことを思い知らされた。
意識しよう意識しようと思ってても、どっかでブレーキかかってるもんだね。
明日死にます。ものすごい苦しんで。
とかそんなシチュエーションは、意識にも上らないうちに排除してた。
今もあまり想像できない。
緩やかな死を考える時よりも、なんというか他人事感としか感じられないでいる。
しかしそういうのも自分事として受け止めて考えていかないといけない。
自らの死を受け止めるのは最後は自分なんだから、お医者さんや医療の現場の人にばかり丸投げするのもおかしな話だしね。もうちょっとちゃんと向き合わなくては。