基本的にありがたいものだが、興が乗ってどんどん書いているときにトンチンカンな予測変換をされるとまことにイラッとする。
ケツの穴の小さい人間だと我ながら思うが、おかしな変換をされることで興が削がれる感じがすごい。
もっともその予測変換も自分がこれまでに書いてきたテキストの上に成り立つものなので、いわば天に唾する行為なのだが、どうしても苛立ちは抑えきれない。
この苛立ちは、手書きをしているときにどうしても漢字を思い出せないときの苛立ちに似ている。
自分のアタマなのに、思い通りに記憶を取り出すことが出気ないのはいったいどういうことか。
他人と話すのがきっついのも、話が弾んでる時に伝えようにも伝えきれないモノが思い浮かんだ時のもどかしさがたまらないからというのが大きい。
自分の頭の中にはある程度イメージが浮かんでいて、それが言葉に出来ないのがイラつくのだけど、言葉を捜してアレコレしゃべってるうちに今度は頭の中のイメージが引きずられていって、最初に思い浮かんでいたイメージが雲散霧消してしまうというすごくくっさい展開に悶えることのなんと多いことか。
頭の中でたとえばキリンのイメージが漠然と思い浮かんでいたとして、それを伝えようと「首が長い奴」「模様がある」「アフリカに住んでる」といった具合に特徴を挙げているうちにどうしても思い出せないときにいちばんの特徴である「首が長い」をスコッと抜いてしまって、「模様がある」「アフリカに住んでる」というその言葉に引きずられて頭の中のイメージがシマウマになってしまうというそんな展開。
どうでもいいが今「とくちょう」と打つところを「とくとう」とミスタイプして「禿頭」と予測変換されやがった。
こういうところにイラッとする。ミスタイプを棚に上げるようだがこの予測変換の候補の厭らしさがまた何とも言えず心をささくれさせるわけですよ。
まだ禿げてへんで! って。
閑話休題。
そんなわけで頭の中がもやもやっとしたイメージしかない時に、わざわざそれを説明しようと声に出したりすると、たいがい最初説明しようとしたものとはかけ離れたものが話し手(自分)と聞き手(相手)との間の共有イメージとして立ち上がってくるので、話題がぽんぽんと移り変わる会話という奴はとっても苦手である。
そのイメージのずれていく感じを楽しめるくらい心の余裕があればええんだけどね。
額の余裕はもう要らないからそっちを増やしたい。