afurikamaimaiのブログ

この道は行き止まりだ。引き返せないよ。

掴み損ねた戦闘潮流。

だいぶ偏った視点からの感想になる。 それを踏まえた上で以下記す。

 

ネット右翼亡国論 桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点

ネット右翼亡国論 桜井誠と廣松渉と佐藤優の接点

 

 

槍玉に上がっている安田浩一側にかなり肩入れしているので、辛い評価になるが、それは俺のバイアスということで、甘受ねがいたいところ。

 

桜井誠のそれが「思想の土着化」の上に立脚しているという見立て、日本の大衆の「集合的無意識」はネット右翼にこそ近しい(ネット右翼の思想は大衆の「集合的無意識」の表出の一形態)というのには、ある程度なるほどと思いつつ、そこからポリティカル・コレクトネスへの攻撃に転じるのはどうなんだろう、と思った次第。

筆者のポリティカル・コレクトネスへの批判、少なからず首肯できるものもあるんだけれども、今という時代において自分が活きて思考するときに、そうとう程度ポリティカル・コレクトネスというか、その辺のなんかリベラルな思想が切り開いてきた地平が土台になってんじゃないの? っていう反発心がどうしても湧く。

 

筆者の言うところのネット右翼B(存在論ネット右翼)もまた、社会に生きる人たちなわけだから、社会の状況とは完全に絶縁した形では思考しえないわけで、今という状況を作り上げた要素に確実に筆者が嫌悪している「平和主義」「人間主義」が混じっているのは否定できない。

ポリティカル・コレクトネスに代表される「大衆から遊離した空理空論」を攻撃するけども、その空理空論の背骨をなすリベラルによって「今の大衆の在り方」が規定されているのは抜き難い事実だろう。

そこから目を背けて、ポリティカル・コレクトネスは大衆から遊離、桜井誠に代表される存在論ネット右翼は大衆に寄り添っている、というのは・・・ちょっと不用意すぎるように思われる。

ネット右翼の存在意義について肯定的に評価するように、リベラルによって拓かれてきた「いま」というのにも一定の評価を与えなければフェアじゃなかろう、と感じた。

 

もっとも、そういうのは踏まえた上での論考だと思うけどね。

その手の世俗の正しさ、社会的な正しさを踏み越えたところで、自身の存在を貫くことにこそ価値を置く、というのを最初に表明しているので。

だから上記の俺の感想は割とイチャモンというか門前払いされる類の感想。

 

で。

「自身の存在を貫く」という点において桜井は評価できる、という視点が本書なのだけど、そこに自分は腑に落ちないところがある。

果たして本当に、桜井は「出家」しているのか、という点だ。

桜井と並べて語られている佐藤優廣松渉と比較したときに、桜井はまだかなり「在家」寄りなんじゃないのか? という疑問がある。

批判されている安田の「ネットと愛国」において、桜井は弟への安田の接触をとかく気にしている。

このナイーヴさは、佐藤や廣松のそれと比した時にあまりに弱々しく見える。

桜井自身が身を投じている「思想と活動」に対して、自己の存在を賭けて全肯定できるだけの自信が欠けているのではないか。

そう思った。

踏み越えた連中にとっては、自分の思想への絶対の自信…というか、そういうふうにしか在りようがない生き方を生きているように見えるが、桜井のそれはまだその段階には達していないように見える。

安田はゴシップ的に桜井を取り上げている側面はあると思うが、今思えばこの

「弟の存在」をこそより深く掘り下げて、桜井に迫るべきだったんではないかと感じる。桜井の拒絶によってそれは成されなかったけど、もっともっと食い下がっていれば、桜井の「思想と活動」の本気度を測ることができたんじゃないだろうか。

その意味で安田の取材も、本書と同じ程度に、自身の主観に基づいて表層を撫でただけの面は否めない気もする。*1

 

いま、桜井が体現していたはずの「大衆の集合的無意識」は、在特会周りの活動が停滞しているのを見ると、桜井は本当に「大衆の集合的無意識に寄り添った思想」を持っていたのか? 少し疑問である。

一方で、今もなお精力的に活動しているというか、吹っ切れたかのように大っぴらに政党活動にも勤しんでいるのを見ると、本人自身の思想として血肉化し、踏み越えた観がなくもない。*2

 

総じて考えると、桜井が体現していた当時の大衆の気分、はたしかにあったと思うけど、大衆の集合的無意識の本質、という部分は掴み損ねていたんじゃないかな、という感想。

つーか、どうやったら「大衆の集合的無意識」なんて掴めるんでしょうね?

そもそも現在、大衆って規定しきれるもんなんだろうか? ってところからうっすら疑問が湧いてきたり。

 

※追記。※

ちょっと整理して考えてみる。

俺にはこの本の桜井誠の擁護の筋が二つあるように見えたのではないか。

桜井誠ネット右翼B(存在論ネット右翼)である、という評価。

これによってネット右翼A(イデオロギーネット右翼)よりは生き方が好ましい、という擁護に繋がってる。

自分なりに理解すると、桜井誠は自身の行動規範に忠実に生きているように見えるけど、櫻井や曽野などの雑な連中は変節漢であり、ビジネス右翼、という見方。

ここは納得。

んで、筆者から見ると安田もまた、こうした軽薄なビジネス右翼と鏡映しで、思想を行動規範として血肉化しているのではなく、思想を道具として用いているだけの輩に過ぎない、という評価(≒だから、桜井よりは程度が低い)という見立てと理解。

その上で、俺は安田の根っ子はビジネス右翼連中と同列に扱っていいものではあるまい、という点で反発した。

 

もう一つ。

・桜井の思想は大衆の集合的無意識に立脚している、という評価。

この点は当時の時流には乗っていた、と思う。

ただ一方で朝鮮学校の公園使用問題など、それまで目立った軋轢のなかった地域社会が在特会前後の時期に混乱にブチ落とされたのをどう捉えるか。大衆の集合的無意識として「朝鮮への反発」が連綿として続いていたのだと考えると、地域での共生が上手く行っていたそれまでは大衆の集合的無意識が抑圧されていただけ、という解釈に繋がり、それってあまりにも虚しすぎないか、という反発を俺は持つ。

その後の経緯で在特会界隈の活動の退潮を鑑みるに、桜井の思想が集合的無意識の具現化として扱うのは不適切だったのではないか、と思っている。*3

いっぽうで、在特会の一線から退きながらもその行動は一貫している桜井のことは、思想の強度・行動規範の確かさという点では改めて評価しなくてはいけないのかも、とも考えなおす。 

※追記終わり※

 

第1章以降は、俺の嗜好上の好き嫌いとは無関係なのでスルスル読めた。

ただ。

全体にこの本、誤植が多すぎる。

校正が評論本としては、ほとんど致命的に甘い。

ネット右翼を分類し、再定義する段で取り違えをしているのを筆頭に、細かいところを上げたらきりがない。

p.39で

安倍晋三麻生太郎百田尚樹が象徴するネット右翼を「ネット右翼A」と呼び

桜井誠が象徴するネット右翼を「ネット右翼B」と呼ぶ。

と定義したすぐその後(p.41)で

ネット右翼A=存在論ネット右翼

ネット右翼B=イデオロギーネット右翼

と規定している。

逆だろ。じゃあなんで桜井を「存在論的」として評価し擁護してんだよ。

こういう大事なところで取り違えしてるので、いいこと言ってるんだけど、全体としてはすごく雑な印象。

この辺もうちょっとどうにかならなかったものか。

次作ではこの辺もっと丁寧に扱ってほしい。読んでて混乱するのよ・・・。

 

*1:ちなみに、俺は安田の主観自体は、本書の筆者の主観と同じくらいに否定するつもりはない。安田が友人の李信恵がらみで強烈にアンチ在特会であり、その主観に沿った取材をしているとしても、それはそれでしゃーないんじゃね、と。下手に中立ぶってるよりもどちらかに肩入れして語るやつの方がむしろ好みですらある。

*2:思想そのものの善悪について語るのはここでは無意味だろう。その世俗の価値観を超えたところに評価軸を置いているのだから。

*3:これは在特会的なヘイトが一般に浸透しきったので目立たなくなっただけ、という解釈も可能だろう。この立場をとるのならば、依然、桜井は大衆の集合的無意識を具現化しているといえる。